ダムに沈んで使命を終えた旧廃道はもはやダムサイトに接近するだけの盲腸線かと思われたが、なんとその先には廃隧道が……。

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この写真は現地調査後の文献調査にて発見した川内ダム工事史からの抜粋である。最初の頁の1枚目の写真にも近いアングルであるが、“トンネルは旧県道”の文字が、本路線に突っ込もうというきっかけとなった、ダム管理用通路と思われた隧道も旧県道であることを物語っていた。もちろん現地調査中には行けるところまで行ってみようという気で行っただけなのだが。


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ということで、この写真を撮っている時点では、ウォッちずに載ってる隧道2本も走破したし、ダムの案内看板を信用して第三の隧道もダム管理用通路だと思っていたので、さっさと撤退して大湊のあらそばでラーメン食おうと思っていた段階である。現道から渓流を見下ろす観光客や、渓流釣りを楽しむ太公望が廃道上に居れば、間違いなくこれ以降の写真は存在しなかったことだろう。


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本路線が向かう野平集落はもちろん戦前から人の住む土地であったのだが、戦後は樺太や満州などの引揚げ者が多数移住し開拓した土地である。森林鉄道が通ってはいたが厳冬期ともなれば川内へ買い出しに出るのも1日仕事であったといい、電気が到達したのは1962(昭和37)年である。引揚者のすべてが豊原や奉天といった都市部で暮していたわけではないにせよ、内地であるはずの青森の下北半島奥地での生活は外地(樺太は1943年以降正式に内地だが)以上に厳しかったであろうと思われる。


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厳しい地理条件ながらも、野平にようやく安住の地を得たかに思えた引揚者たちも川内ダムの建設により、ふたたび全国に散っていく運命となってしまった。あらかじめ、ダム建設や川内ダムを批判する立場でないということは断わっておくが、歴史に翻弄された人々がいるというのは気に留めておかねばならないと思う。一部が水没せず残存した本路線もまた、彼らが通った道として歴史を後世に伝える貴重な存在になるはずである。


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近づいてみたら、ダムの管理用通路なんかではなく、今までの旧県道隧道との連続性を示すように「親不知第三号隧道」の扁額が確認された。ウォッちずをはじめとする各種地図では隧道は2本のはずだが、3本目も存在していたのである。しかし目前には川内ダムが立ちはだかり、果たしてどこへ続いているのか、坑口前に立ってもなおわからない。やはり堤体内部にて閉塞しているのだろうか。

最終話に続く

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