大仏公園東奥日報
■大渕ケ鼻城跡の石碑完成/弘前

弘前市石川地区の住民有志が、大仏公園入り口の民地に「大渕ケ鼻城跡」の石碑を建立し10日、除幕式を行った。大浦(津軽)為信の津軽統一以前、南部氏の津軽支配の拠点だった大渕ケ鼻城の名前を石碑に記し、為信に滅ぼされた城主・南部高信と亡くなった城下の住民たちに思いをはせた。

大渕ケ鼻城は、「石川城」「大仏ケ鼻城」とも呼ばれる。南北朝時代に曽我氏が居城し、その後、南部高信が居城。元亀2(1571)年、津軽藩初代藩主となる大浦為信の夜襲により滅ぼされた。

石碑の建立は、工藤良憲市議が発起人となり、同地区の住民約30人が賛同した。除幕式には約20人が出席。大仏院の住職が石碑の前で入魂の儀を行った後、除幕して完成を祝った。石碑の表には「大渕ケ鼻城跡」、裏側には「津軽を創ったつはもの達の夢の跡」と刻まれた。工藤市議は「南部氏の落城後、石川の住民は皆殺しにされたと言われる。石碑を建てたことで、やっと先祖の供養の始まりになる」と話した。

(2013/11/13 東奥日報より引用)


すっかり津軽藩の城下町という印象の弘前市だが、なんと南部高信ときたか。
信長の野望だと、南部家の家臣・石川高信として石川城に出てくる武将でおなじみですな。

“南部氏の落城後、石川の住民は皆殺しにされたと言われる。石碑を建てたことで、やっと先祖の供養の始まりになる”

皆殺しにされたなら、今の石川の人々の先祖じゃな……


と言いたいところだが、そういえば2004年の津軽弁の日にも似たのがあった。


■「津軽為信銅像再建立異聞」 神 武弘/弘前市(2004年 入選)

津軽為信の銅像は今年めでたく再建しました。その経費は、ほとんど市民によるカンパでした。
そのカンパが始まった数年前の和徳地区のある町内会での事。
「ワだじゃ、こんだ為信様の銅像とば再建すことになってさ、寄付集(アズ)める事になったんだじゃ。先祖が侍だったてす旦那もひとつたのみすじゃ。」
「町会長、先(まん)ず上がれじゃ。今なんてした、為信の銅像こさえるんだと。誰(だ)そした事始めたんだば。おいの先祖、侍だばって為信の家来でねんだね。為信に騙し討ちされた和徳城主小山内讃岐守様の家来だったんだじゃ。為信しかてっぺ実力あって、俺らだちもあんずましく暮らしていたのさ騙し討ちしやっがって・・・」
「おいの先祖は、たまたま浪岡城さ出張中だったはんで助かったども、一人残らず全滅したんだぞ。考えてみなか、為信は石川城主とば端午の節句の祝さ呼ばって、てっぺ飲まへて、その帰(けえ)りとば、ぼっかけて行って皆殺しにして、その足で和徳城さ攻めできやがったんだでばな。大量破壊兵器こへでらわけでもねのに・・・。ひきょう者め為信ーーーー。おまけにでったらだ店(みへ)もいっぺあったのばみんなぶっつぶしやがって、それ以来在郷(じゃいご)和徳って喋(しゃべ)られて、不景気が今も続いてるんだでばな。なぬ、時代の変化だって。ワイだばみんな為信のせいだと思ってるんだじゃ。これでたいがい話はわかったべ。津軽さだば為信にほろぼされた、大光寺、浪岡、油川、田舎館城の子孫がてっぺいるんだぞ、カンパどころか銅像反対のゲキをとばし、筵旗(むしろばた)立でて、大挙して押し寄せるぞ。・・・したばって今だば、どこさ攻めて行げばいんだべな。」

(津軽弁の日公式HPより引用)

こちらの舞台は、同じく為信に滅ぼされた和徳の城主・小山内讃岐守満春の話。

和徳勢の子孫だろうか。
この人のご先祖様は、たまたま浪岡城さ出張中で助かったのだという。

石川の住民も、きっと、たまたま出張中だったのだろう。


こういう話しが出てくるのが弘前市の文化度の高さというか、面白さだな。
青森市だと、まず出てこないだろうなあ。


それにしても、2004年の津軽弁の日は良かった。
公式サイトを見て、当時を思い出して笑ってしまったね。

まだ伊奈かっぺいが脳梗塞になる前で、北野岸柳も心筋梗塞で倒れる前だった。
野津こうへいも、今より明らかに元気だった。

乗って残そう津軽鉄道・弘南鉄道よろしく、津軽弁も、我々、若い世代が「喋って残そう津軽弁」で、なるべぐ使って残さねばまいねね。

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