前回は順序を変え、田島の県境から国道121号を鬼怒川・川治経由でそのまま南下し、どのルートで新4号国道に合流するのが最速かを計算した。
その結果は、短絡道をごちゃごちゃ乗り継ぐより、新4号・国道119号(宮環・宇都宮北道路)、栃木県道279号、国道121号の組み合わせが最速であろうという計算になった。
今回は、田島からのもう一つのルートである国道400号 尾頭トンネルで那須塩原に抜けるルートと、白河から国道4号をそのまま南下するルートとの比較を行う。
宇都宮⇔米沢の選択肢の多さで未確定だった東京⇔青森の最速ルートは、今回、決するのである。
新4号国道の終点である宇都宮市の平出工業団地を基点に、計算をした図が下記である。

【画像はクリックで拡大します】
演出上、敢えて、轟工業団地以南のルートをこの図から省いた。
まず、宇都宮以北も国道4号を北上するルートで、白河と田島それぞれの県境までの計算を見ていきたい。
白河へは、国道4号の一本道だ。
旧奥州街道と国道294号も並行して割と速いのだが、白河の市街地で低速域に入ってしまう。
田島へは、やはり馬鹿正直に西三島から国道400号に入るより、手前の短絡県道の方が速かった。
上石神から県道185号も速いのだが、それより南の蒲須坂(南)で現国道4号(バイパスでない方)に接続し、乙畑交差点から県道30号で関谷まで行って、国道400号という方が速かった。
では、宇都宮平出工業団地から白河と田島へ両者を比較してみよう。

【画像はクリックで拡大します】
福島県境までは、国道4号で白河の県境に行く方が1時間35分12秒。
塩原経由で田島の県境までは1時間36分55秒かかるので、国道4号で白河を目指す方が1分43秒ほど早く福島県に入ることになる。
さて、第5回の計算で、白河県境⇔米沢の最速ルートは、国道294号(勢至堂トンネル)で猪苗代湖西岸を北上し、国道121号(大峠道路)というルートだった。
こちらでの、白河県境⇔米沢の所要時間は2時間33分17秒だった。
対する、田島県境⇔米沢の最速ルートは、国道121号と118号で会津を縦断し、国道121号(大峠道路)というルート。
こちらでの田島県境⇔米沢の所要時間は2時間30分51秒だ。
田島の県境から米沢を目指す方が、白河の県境から米沢を目指すより、2分26秒のアドバンテージを持っているという結果が出ていたのである。
ということは、田島を経由する方が、白河を経由するより僅か43秒ながら早いのである。
白河ルート、破れたり・・・
ということで、関東と東北の境界を越えるべきは田島の県境に位置する国道121号 山王トンネルと定まった。
『会津西街道』と称され今市から鬼怒川・川治を経由してくる国道121号と、『会津東街道』と称され塩原経由でくる国道400号、どちらが速かったのだろうか。
前述のとおり、会津西街道経由なら、国道119号(宮環・宇都宮北道路)、栃木県道279号というのが最速だと決している。
両ルートの分岐点となる宇都宮の平出工業団地交差点から、今市を経由する会津西街道と、塩原を経由する会津東街道のどちらに軍配が挙がるのか!?

【画像はクリックで拡大します】
実は答えは既に上の地図で出ていたが、日光今市北部の轟工業団地から、田島の県境までで約1時間かかってしまう。
今市より塩原を経由する方が約6分ほど早く、田島の県境に着くのだ。
宇都宮、塩原、田島、会津若松、米沢、山形、横手、角館、鷹巣、大館
ここに、野岩羽ルートでの宇都宮以北の最速ルートが決したのである。
■野岩羽から鬼県令の偉業を考えてみる。

塩原から尾頭トンネルで上三依、

上三依から山王トンネルで会津田島、

会津を縦断し喜多方から大峠道路で米沢、

米沢から最上川流域を縦断し主寝坂道路で及位、

及位から雄勝トンネルで秋田県へ。
もうお気づきだろう。

『尾頭、山王、大峠、主寝坂、雄勝』
山形・福島・栃木の県令を務め、鬼と恐れられた三島通庸に縁のある道路の子孫であると。
三島通庸が建設した道路は既に廃道化しているが、いずれもバイパス・新道、果ては高速道路という形で更新され、道筋自体は三島のそれを踏襲している。
そして、今なお、東京から青森に至る一般道最速ルート上にある、というのが実に興味深い。
あくまで仮説だが、三島通庸は蝦夷地への最短ルート建設という壮大な構想を持っていなかったか。
東京から青森への最速ルートとは、すなわち東京から函館への最速ルートに同じである。
三島通庸の道路建設事業は山形県の発展の礎となり、今日も山形県では評価されている人物であろう。
山形県に比べるとどちらかと言えば嫌われていそうな気がするが、福島県でも鬼県令というイメージで三島の知名度は定着しているように思う。
これが秋田県以北になれば、高校で日本史を勉強した人間でなければ三島通庸が何をした人物か答えられる人は少ないと思われる。
三島は本当に、山形県や福島県の発展の為だけに、強硬に道路工事を推し進めたのだろうか。
【画像はクリックで拡大します】
確かに、県境に道路整備することで、隣県との経済交流が活発化する効果はあったと思うが、それなら内陸と庄内を短絡する新道を建設する方を急ぎ、秋田の湯沢・横手へ向かう主寝坂峠や雄勝峠の整備は後回しでもよくなかったか。
主寝坂と雄勝峠という2か所の難所を克服せずとも、新庄・余目間を最上川沿いに整備する方(現国道47号ルート)が容易かったであろうし、余目まで抜けてしまえば、酒田からは海沿いに本荘を経由し秋田県都まで平坦路(羽州浜街道・現国道7号ルート)なのだから。
また、庄内・鶴岡と山形の間を結ぶルートとしては、奈良時代ごろから六十里越街道(現国道112号ルート)があり、今では自専道の月山道路で結ばれているルートだ。
しかし六十里越の新道建設には"三島は乗り気でなかった"ようで、『三島通庸が山形県令になると道路の整備・開さくに大いに力を入れるが六十里越街道にはあまり目は向けられなかった』と、国土交通省のサイトにも記載がある。
山形にとって隣県の秋田との交通網の強化を考えれば、山形盆地から庄内・鶴岡(そもそも鶴岡は合併前の鶴岡県の県庁所在地でさえあった)への短絡路たる六十里越街道を強化することで新・山形県の県内経済の活性化にも資するし、庄内から秋田市へは海沿いの平坦な幹線路であるので、秋田への短絡路にもなる新道として一石二鳥であったはずだ。
そこで思うのは、三島は、蝦夷地への最速ルートとなることを見込んで主寝坂と雄勝の両峠の整備を進めていたのではないか、という仮説である。
三島通庸を県令として山形に派遣したのは大久保利通だが、その大久保はロシアの南下に備え、北海道の開拓と共に、軍隊を派遣するために東北地方の道路整備を推進していた。
ちょうど山形県庁のホームページに面白い記載もあった。
「庄内藩は、戊辰戦争敗戦後の処理で西郷隆盛の寛大な処分に恩を感じており、西南戦争の折には薩摩藩に呼応して挙兵する心配」があり、鎮撫という内政的課題もあって、三島を派遣したことに言及している。
やはり、庄内への鎮撫や、庄内での有事の際の軍隊派遣という面で考えれば、六十里越街道を整備した方が良かったではないか。
六十里越を整備すれば軍を素早く庄内に派遣できるし、三島なら後に福島で自由民権運動を弾圧するように、庄内の反政府分子を道路工事に従事させてぶっ潰すことも可能だったはずだ。
そう考えると、北海道開拓・東北の軍事道路整備を推進していた大久保利通によって派遣された三島通庸は、仙台など太平洋側を経て青森に至る奥州街道に代わり、山形や会津を縦貫する道路網が、将来的に蝦夷地への最短路となることも頭に入っていたのではないかと思うのである。
もっとも、推測の域は出ない。
三島と同じ時期に秋田県令だったのは石田英吉だが、彼が三島に呼応するように角館以北で青森方面への短絡路になる大覚野街道を整備したなどという話も聞かない。
が、現在でもなお、一般道で東京⇔青森・函館の最短ルート上に三島が切り開いた道の子孫が並んでいるのを見ると、県令として赴任した県のためだけに整備した道路どうしのネットワークが起こした偶然だとも、素直に思えないのである。
だいぶ話が飛んだが、次回はいよいよ最終回、東京から宇都宮を計算することにする。
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その結果は、短絡道をごちゃごちゃ乗り継ぐより、新4号・国道119号(宮環・宇都宮北道路)、栃木県道279号、国道121号の組み合わせが最速であろうという計算になった。
今回は、田島からのもう一つのルートである国道400号 尾頭トンネルで那須塩原に抜けるルートと、白河から国道4号をそのまま南下するルートとの比較を行う。
宇都宮⇔米沢の選択肢の多さで未確定だった東京⇔青森の最速ルートは、今回、決するのである。
新4号国道の終点である宇都宮市の平出工業団地を基点に、計算をした図が下記である。

演出上、敢えて、轟工業団地以南のルートをこの図から省いた。
まず、宇都宮以北も国道4号を北上するルートで、白河と田島それぞれの県境までの計算を見ていきたい。
白河へは、国道4号の一本道だ。
旧奥州街道と国道294号も並行して割と速いのだが、白河の市街地で低速域に入ってしまう。
田島へは、やはり馬鹿正直に西三島から国道400号に入るより、手前の短絡県道の方が速かった。
上石神から県道185号も速いのだが、それより南の蒲須坂(南)で現国道4号(バイパスでない方)に接続し、乙畑交差点から県道30号で関谷まで行って、国道400号という方が速かった。
では、宇都宮平出工業団地から白河と田島へ両者を比較してみよう。

福島県境までは、国道4号で白河の県境に行く方が1時間35分12秒。
塩原経由で田島の県境までは1時間36分55秒かかるので、国道4号で白河を目指す方が1分43秒ほど早く福島県に入ることになる。
さて、第5回の計算で、白河県境⇔米沢の最速ルートは、国道294号(勢至堂トンネル)で猪苗代湖西岸を北上し、国道121号(大峠道路)というルートだった。
こちらでの、白河県境⇔米沢の所要時間は2時間33分17秒だった。
対する、田島県境⇔米沢の最速ルートは、国道121号と118号で会津を縦断し、国道121号(大峠道路)というルート。
こちらでの田島県境⇔米沢の所要時間は2時間30分51秒だ。
田島の県境から米沢を目指す方が、白河の県境から米沢を目指すより、2分26秒のアドバンテージを持っているという結果が出ていたのである。
ということは、田島を経由する方が、白河を経由するより僅か43秒ながら早いのである。
白河ルート、破れたり・・・
ということで、関東と東北の境界を越えるべきは田島の県境に位置する国道121号 山王トンネルと定まった。
『会津西街道』と称され今市から鬼怒川・川治を経由してくる国道121号と、『会津東街道』と称され塩原経由でくる国道400号、どちらが速かったのだろうか。
前述のとおり、会津西街道経由なら、国道119号(宮環・宇都宮北道路)、栃木県道279号というのが最速だと決している。
両ルートの分岐点となる宇都宮の平出工業団地交差点から、今市を経由する会津西街道と、塩原を経由する会津東街道のどちらに軍配が挙がるのか!?

実は答えは既に上の地図で出ていたが、日光今市北部の轟工業団地から、田島の県境までで約1時間かかってしまう。
今市より塩原を経由する方が約6分ほど早く、田島の県境に着くのだ。
ここに、野岩羽ルートでの宇都宮以北の最速ルートが決したのである。
■野岩羽から鬼県令の偉業を考えてみる。

塩原から尾頭トンネルで上三依、

上三依から山王トンネルで会津田島、

会津を縦断し喜多方から大峠道路で米沢、

米沢から最上川流域を縦断し主寝坂道路で及位、

及位から雄勝トンネルで秋田県へ。
もうお気づきだろう。

『尾頭、山王、大峠、主寝坂、雄勝』
山形・福島・栃木の県令を務め、鬼と恐れられた三島通庸に縁のある道路の子孫であると。
三島通庸が建設した道路は既に廃道化しているが、いずれもバイパス・新道、果ては高速道路という形で更新され、道筋自体は三島のそれを踏襲している。
そして、今なお、東京から青森に至る一般道最速ルート上にある、というのが実に興味深い。
あくまで仮説だが、三島通庸は蝦夷地への最短ルート建設という壮大な構想を持っていなかったか。
東京から青森への最速ルートとは、すなわち東京から函館への最速ルートに同じである。
三島通庸の道路建設事業は山形県の発展の礎となり、今日も山形県では評価されている人物であろう。
山形県に比べるとどちらかと言えば嫌われていそうな気がするが、福島県でも鬼県令というイメージで三島の知名度は定着しているように思う。
これが秋田県以北になれば、高校で日本史を勉強した人間でなければ三島通庸が何をした人物か答えられる人は少ないと思われる。
三島は本当に、山形県や福島県の発展の為だけに、強硬に道路工事を推し進めたのだろうか。
【画像はクリックで拡大します】確かに、県境に道路整備することで、隣県との経済交流が活発化する効果はあったと思うが、それなら内陸と庄内を短絡する新道を建設する方を急ぎ、秋田の湯沢・横手へ向かう主寝坂峠や雄勝峠の整備は後回しでもよくなかったか。
主寝坂と雄勝峠という2か所の難所を克服せずとも、新庄・余目間を最上川沿いに整備する方(現国道47号ルート)が容易かったであろうし、余目まで抜けてしまえば、酒田からは海沿いに本荘を経由し秋田県都まで平坦路(羽州浜街道・現国道7号ルート)なのだから。
また、庄内・鶴岡と山形の間を結ぶルートとしては、奈良時代ごろから六十里越街道(現国道112号ルート)があり、今では自専道の月山道路で結ばれているルートだ。
しかし六十里越の新道建設には"三島は乗り気でなかった"ようで、『三島通庸が山形県令になると道路の整備・開さくに大いに力を入れるが六十里越街道にはあまり目は向けられなかった』と、国土交通省のサイトにも記載がある。
山形にとって隣県の秋田との交通網の強化を考えれば、山形盆地から庄内・鶴岡(そもそも鶴岡は合併前の鶴岡県の県庁所在地でさえあった)への短絡路たる六十里越街道を強化することで新・山形県の県内経済の活性化にも資するし、庄内から秋田市へは海沿いの平坦な幹線路であるので、秋田への短絡路にもなる新道として一石二鳥であったはずだ。
そこで思うのは、三島は、蝦夷地への最速ルートとなることを見込んで主寝坂と雄勝の両峠の整備を進めていたのではないか、という仮説である。
三島通庸を県令として山形に派遣したのは大久保利通だが、その大久保はロシアの南下に備え、北海道の開拓と共に、軍隊を派遣するために東北地方の道路整備を推進していた。
ちょうど山形県庁のホームページに面白い記載もあった。
「庄内藩は、戊辰戦争敗戦後の処理で西郷隆盛の寛大な処分に恩を感じており、西南戦争の折には薩摩藩に呼応して挙兵する心配」があり、鎮撫という内政的課題もあって、三島を派遣したことに言及している。
やはり、庄内への鎮撫や、庄内での有事の際の軍隊派遣という面で考えれば、六十里越街道を整備した方が良かったではないか。
六十里越を整備すれば軍を素早く庄内に派遣できるし、三島なら後に福島で自由民権運動を弾圧するように、庄内の反政府分子を道路工事に従事させてぶっ潰すことも可能だったはずだ。
そう考えると、北海道開拓・東北の軍事道路整備を推進していた大久保利通によって派遣された三島通庸は、仙台など太平洋側を経て青森に至る奥州街道に代わり、山形や会津を縦貫する道路網が、将来的に蝦夷地への最短路となることも頭に入っていたのではないかと思うのである。
もっとも、推測の域は出ない。
三島と同じ時期に秋田県令だったのは石田英吉だが、彼が三島に呼応するように角館以北で青森方面への短絡路になる大覚野街道を整備したなどという話も聞かない。
が、現在でもなお、一般道で東京⇔青森・函館の最短ルート上に三島が切り開いた道の子孫が並んでいるのを見ると、県令として赴任した県のためだけに整備した道路どうしのネットワークが起こした偶然だとも、素直に思えないのである。
だいぶ話が飛んだが、次回はいよいよ最終回、東京から宇都宮を計算することにする。
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