脚を痛めながら投げ抜いた光星の投手・中川君を思えばしのびないのだけれど。
青森県立三沢商業高校野球部、優勝おめでとう!
夏の甲子園に、青森の県立高校が出場するのは1996年の弘前実業以来なのだ。
光星学院・青森山田の2強に八戸工大一と弘前学院聖愛が絡む私学列強時代が続いてきた青森県で、ついに19年ぶりに県立高校が甲子園へ出ることになったのだ。
私学が首都圏や大阪周辺から生徒を連れてきて、青森県人がほぼいないチームでの甲子園出場をすることに青森県内外で批判はあったし、自分も「そこまでして甲子園に出たいのか」と思ったりしたが、私学が青森の高校野球のレベルを牽引したのは間違いない。
青森出身の若い人間がどんどん都会に出て行くような状況で、都会からわざわざ青森くんだりまで野球をしにきてくれる私学の生徒や、私学の経営努力を「外人部隊」などと揶揄するのは酷な気もする。
でも、やっぱり青森県人のチームが甲子園に行くと嬉しい。
2013年の夏に、オール青森県人の聖愛が山田と光星を倒して甲子園に行った時は、久々に青森県代表校の応援に熱が入った。
惜しくもベスト8は逃したが、玉野光南(岡山)と沖縄尚学(沖縄)を破った聖愛の快進撃に、青森県人チームでも勝てるという喜びを感じた。
「打倒光星・山田」で、聖愛をはじめ青森の各校が凌ぎを削った結果、青森県全体の高校野球のレベルが上がったのだ。
2013年の聖愛の快進撃を見てからというもの、なんとか県立高校でも甲子園に行けないものだろうかという思いがひときわ強くなった。
同時に、私学に比べれば練習環境では恵まれない県立高校はやはり厳しいのだろうかと半ば諦めかけて見ていたところでの県立三沢商業の優勝。
自分の母校でないけれど、嬉しいじゃないか。
全力で応援するぞ。
甲子園でも勝ってきてくれ!
さて、一県一校制が導入された1978(昭和53)年以降の青森大会の決勝の結果を下表にまとめた。
緑地に白文字が公立高校、赤地に白文字が私立高校だ。
1996年に甲子園に出場した弘前実業も2000年に1回、青森が2回、青森北と大湊、弘前が1回ずつの計6回ほど県立高校が決勝に駒を進めたが、優勝は18年叶わなかった。
(18年というと、今の青森の高校球児で県立高校が甲子園で戦う様子を生でみた人間はいないのだ。多分)
1996年の弘実以来、12回は決勝が私学対決だったので、県立が決勝に行くだけでもすごい時代だったのだ。
今のところ、最後の決勝県立対決は1992年の弘前実業×五所川原工業。
もう23年も前なのだ。
1992年といえば、前年の1991年に開局したABA 青森朝日放送が高校野球中継を開始した年だ。
これより古くなると、僕の記憶も大分怪しくなってくる。
1989年、石川(沖縄)を破り勢いに乗る弘前工業の前に、八戸二中卒の大越基率いる仙台育英が立ちはだかった試合は記憶にない。
白河の関越えを懸けた決勝で、仙台育英が帝京に負けたのは覚えているんだが…
長くなるが、記憶に残る県勢の夏の甲子園を下に記しておく。
ぼくの記憶に残る青森県勢の甲子園(1)
昭和の試合となると、まだNHKがYouTubeの違法アップロード潰しに本気になる前の、2005年ごろに見ることができた「木造×佐賀商業」は印象深い。
1982年。
佐賀商業・新谷の完全試合達成目前の9回2死で出てくる深浦町立大戸瀬中卒の世永幸仁選手。
世永選手は青森大会に1試合も出ていないから、打率などのデータが皆無なのだ。
木造を間違えて「モクゾウ高校」と読み上げてしまって苦情が殺到し、ディレクターから自分の耳にも入ってきていたのか、NHKの実況アナウンサーもこの展開にはだいぶ焦ったのであろう。
「世永の世という字は世界の世、永という字は永遠の永」
という、モクゾウ高校以上に歴史に残る名実況が生まれている。
なお余談ながら、この実況を担当したアナウンサーは、後に某民放の朝の情報番組の名司会者になる人物である。
(良かったね、木造だとほぼ映らない民放で。)
NHKではなく、大阪ABCテレビの動画がYouTubeに出ていたので貼っておこう。
ぼくの記憶に残る青森県勢の甲子園(2)
もう一つ忘れられないのは1998年か。
全国的に有名なのは、深浦から122点取った東奥義塾だろう。
が、印象深いのはその後だ。
次の試合、東奥義塾は、むつ下北地区の県立進学校である田名部高校に14-2でコールド負けする。
僕の記憶が正しければ、田名部は1994年に青森山田を2-1で倒しており、夏の大会で山田・光星のいずれかを倒したむつ下北地区最後の学校である。
(1994年の山田戦後の東奥日報の見出しは「のびのび田名部 大金星」であった。)
そんな大物食いの田名部であったが、次はむつ下北地区の宿命のライバル・大湊との戦いだった。
義塾を12点差コールドで沈めた田名部は、0-6で大湊に完封負けするのである。
この大湊だが、次の準々決勝の相手は八戸工大一。
なんと2-14で八戸工大一にコールド負けしたのである。
後で知ることになるが、この時の八戸工大一には根市寛貴のお兄さんがいたそうである。
八戸工大一は決勝で、同じ八戸市のライバル私学・光星学院を破って甲子園に出場するが、そう、アレです。
鹿児島実業の杉内の前に、木造以来16年ぶり2回目のノーヒットノーラン負けをやられてしまう。
なんてこった。
その鹿児島実業も、次の横浜高校戦で松坂大輔の前に0-6の完封負け。
ここから先の横浜といえば、延長17回のPLとの死闘(9-7)、松坂登板後に大逆転勝利を飾る明徳義塾戦(7-6)、決勝でノーヒットノーランを達成する京都成章戦(3-0)と、まるで物語や小説のような快進撃が待っているのは誰しもが記憶に残っていることだろう。
122点差で始まった青森大会から見ていくと、横浜の全国制覇はあまりにも強烈に見えるのである。
ぼくの記憶に残る青森県勢の甲子園(3)
県立びいきの僕だが、3つ目は実は1999年の青森山田と2000年の光星学院になる。
1999年は、平内町出身の松野投手を擁す青森山田が、初日第一試合で九州学院(熊本)を3-2で撃破したところから始まる。
まだ、青森代表が普通に初戦突破できると思ってない時代なので(なんたって前年は工大一が鹿実にノーヒットノーラン負けである)、九州学院を倒しただけでフィーバー状態だった。
1勝しただけで嬉しかったのに、次の東福岡(福岡)戦も9-3で撃破してしまう。
青森県勢が夏2勝挙げるというのをリアルタイムで見たことがない世代の僕にとって、青森山田の2勝目は画期的な出来事だった。
同時に、敗戦後の東福岡の監督のインタビューから、今も忘れられない言葉が出て来るのである。
「青森代表に負けたと思っていない」
(全国から優秀な選手を集めているという文脈で)
東福岡は、ほとんどが首都圏や大阪周辺の選手だった青森山田を痛烈に皮肉ったのだ。
ピッチャー平内出身だぞ、と憤ったのは今も記憶に残っている。
青森山田は次の日田林工(大分)も7-4で倒してしまい、なんと三沢以来の青森県勢ベスト8を達成してしまう。
もう、この時の青森市内の盛り上がり方と言ったらなかった。
が、九州勢を次々と倒してきた青森山田の前に立ちはだかったのは、1998年の鹿実に続く鹿児島県勢・樟南高校であった。
松野投手率いる青森山田を応援し続けた夏は、0-4で樟南に負けて終わった・・・
翌2000年は、好投手・斎藤広大と、名川町出身の根市寛貴という2人の投手を擁する光星学院が甲子園へ。
壮行式では当時の金沢監督が「甲子園では昨年の青森山田さん以上の成績を残すことが目標」と宣言。
三沢以来30年ぶりの8強を、本当に更新なんて出来るのかと思った。
初戦は愛媛代表の丹原。
強打で愛媛を勝ち上がってきた丹原と壮絶な打ち合いになりつつ、光星が10-8で初戦突破。
キャプテンの小浜巧聖選手が「タンバラバンバンバンです!」とチームを笑わせて緊張を解こうとしていたのが印象に残る。
2年連続で初戦突破できただけでも嬉しいのに、光星学院は次戦でまたしても九州学院(熊本)を4-3で破り、金沢監督の公約通りベスト8を達成。
で、3年連続で宿敵の鹿児島県勢(樟南)と激突。
投手は名川町出身の根市。
2-0でリードしたまま迎えた9回、樟南が1点を返しなお2死2塁。
樟南の打者が放ったゴロは、ショートの目の前でイレギュラーし、外野へ。
万事休す、同点か。
この時のABA田村アナの応援実況の「あああああああdrftgy!!!」という悲鳴に近い絶叫は記憶にある方も多いだろう。
この窮地を救ったのは、キャプテン小浜巧聖のレーザービーム。
練習でも成功したことがないというバックホームで、走者の本塁進入を刺し試合終了。
八戸工大一、青森山田と2年連続で青森県勢が涙を飲んだ鹿児島県勢を破って、光星学院が三沢以来31年ぶりの4強を決めたのだ。
後に光星学院は全国準優勝まで上り詰めるが、この時ほどの感動はなかった。
次戦の智辯和歌山戦は、悪友と学校をサボってサンロード青森の電気屋の大型テレビ前で観戦。
途中、光星学院が同点に追いつくと、NHKが「意外な展開になりました」と実況。
すると、後ろから「なんだ!NHKこの野郎!失礼だやづだ!」と見知らぬオヤジの野次が。
振り返ると、「昭和30年代の街頭テレビってこんな感じだったのかな」と思わせるような光景が広がっていた。
「10チャンネルの応援実況さ変えろ!」と誰かが言うと、電気屋の兄ちゃんがNHKからABAに変えてくれて、そこからは田村アナの応援絶叫。
が、光星学院も、もう満身創痍だったのだろうか。
智弁和歌山ご自慢のジョックロックの響きに圧倒され、僕の応援の夏も終わったのだった。
帰り際、サンロード隣の食彩バリバリでお好み焼きを食っているときに友人が、光星学院の戦いっぷりをスラムダンクに例えて、「ヤマオー(山王工業)倒した後、愛和学院に負けた湘北みたいだったな」と呟いた。
本当は、1999年の青森山田と2000年の光星学院は別で扱うべきかもしれない。
だが、三沢の準優勝を知らない世代の僕にとって、宿敵の鹿児島県勢との激闘を経て8強、4強と達成して行った両校の快挙は、連続した物語として捉えたいのだ。
この後の2000(ゼロゼロ)年代、山田と光星が甲子園青森代表の座を寡占状態にしてしまい、それは面白さを欠くように思えた時期もあったが、この2校に追いつけ追い越せで青森の各高校が強化に取り組んだのは間違いないだろう。
この2校のどちらかを破って甲子園に出た2010年の八戸工大一も、2013年の弘前学院聖愛も、夏の甲子園で初戦突破を果たしている。
これは、山田と光星の2強時代が青森のレベルを上げた証左と言ってよいと思う。
次は青森県立三沢商業高校がそれを甲子園で見せる番だ。
まずは1991年の弘前実業以来の県立勢の1勝をもぎ取れ!
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青森県立三沢商業高校野球部、優勝おめでとう!
夏の甲子園に、青森の県立高校が出場するのは1996年の弘前実業以来なのだ。
光星学院・青森山田の2強に八戸工大一と弘前学院聖愛が絡む私学列強時代が続いてきた青森県で、ついに19年ぶりに県立高校が甲子園へ出ることになったのだ。
私学が首都圏や大阪周辺から生徒を連れてきて、青森県人がほぼいないチームでの甲子園出場をすることに青森県内外で批判はあったし、自分も「そこまでして甲子園に出たいのか」と思ったりしたが、私学が青森の高校野球のレベルを牽引したのは間違いない。
青森出身の若い人間がどんどん都会に出て行くような状況で、都会からわざわざ青森くんだりまで野球をしにきてくれる私学の生徒や、私学の経営努力を「外人部隊」などと揶揄するのは酷な気もする。
でも、やっぱり青森県人のチームが甲子園に行くと嬉しい。
2013年の夏に、オール青森県人の聖愛が山田と光星を倒して甲子園に行った時は、久々に青森県代表校の応援に熱が入った。
惜しくもベスト8は逃したが、玉野光南(岡山)と沖縄尚学(沖縄)を破った聖愛の快進撃に、青森県人チームでも勝てるという喜びを感じた。
「打倒光星・山田」で、聖愛をはじめ青森の各校が凌ぎを削った結果、青森県全体の高校野球のレベルが上がったのだ。
2013年の聖愛の快進撃を見てからというもの、なんとか県立高校でも甲子園に行けないものだろうかという思いがひときわ強くなった。
同時に、私学に比べれば練習環境では恵まれない県立高校はやはり厳しいのだろうかと半ば諦めかけて見ていたところでの県立三沢商業の優勝。
全力で応援するぞ。
甲子園でも勝ってきてくれ!
さて、一県一校制が導入された1978(昭和53)年以降の青森大会の決勝の結果を下表にまとめた。
緑地に白文字が公立高校、赤地に白文字が私立高校だ。
| 開催年 | 優 勝 校 | ス コ ア | 準 優 勝 校 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1978年 | 青森北 | 4−3 | 八戸西 | |
| 1979年 | 弘前実業 | 4−2 | 八戸西 | |
| 1980年 | 弘前工業 | 1−0 | 青森山田 | |
| 1981年 | 東奥義塾 | 2−1 | 八戸 | |
| 1982年 | 木造 | 4−1 | 青森山田 | 郡部校で唯一の甲子園出場 |
| 1983年 | 八戸工大一 | 6−4 | 八戸 | |
| 1984年 | 弘前実業 | 4−2 | 弘前工業 | |
| 1985年 | 八戸 | 3−0 | 三沢商業 | |
| 1986年 | 三沢商業 | 4−1 | 青森山田 | |
| 1987年 | 八戸工大一 | 3−2 | 青森商業 | |
| 1988年 | 弘前工業 | 6−1 | 八戸 | |
| 1989年 | 弘前工業 | 11−1 | 青森商業 | |
| 1990年 | 八戸工大一 | 12−2 | 東奥義塾 | 初の私学勢決勝 |
| 1991年 | 弘前実業 | 7−1 | 八戸工業 | |
| 1992年 | 弘前実業 | 11−6 | 五所川原工業 | 最後の県立勢決勝 |
| 1993年 | 青森山田 | 9−3 | 東奥義塾 | |
| 1994年 | 八戸 | 7−6 | 光星学院 | |
| 1995年 | 青森山田 | 4−2 | 光星学院 | 初の山田×光星決勝 |
| 1996年 | 弘前実業 | 6−4 | 光星学院 | |
| 1997年 | 光星学院 | 11−0 | 青森山田 | |
| 1998年 | 八戸工大一 | 3−2 | 光星学院 | |
| 1999年 | 青森山田 | 5−3 | 光星学院 | 山田の最高戦績(全国8強) |
| 2000年 | 光星学院 | 7−1 | 弘前実業 | 三沢(1969年)以来の全国4強 |
| 2001年 | 光星学院 | 3−1 | 青森 | 全国8強 |
| 2002年 | 青森山田 | 9−2 | 光星学院 | |
| 2003年 | 光星学院 | 9−4 | 青森山田 | 全国8強 |
| 2004年 | 青森山田 | 12−0 | 青森北 | |
| 2005年 | 青森山田 | 8−1 | 光星学院 | |
| 2006年 | 青森山田 | 5−4 | 光星学院 | |
| 2007年 | 青森山田 | 9−2 | 八戸工大一 | |
| 2008年 | 青森山田 | 4−0 | 光星学院 | |
| 2009年 | 青森山田 | 4−3 | 大湊 | むつ下北勢初の決勝進出 |
| 2010年 | 八戸工大一 | 3−0 | 光星学院 | |
| 2011年 | 光星学院 | 9−1 | 野辺地西 | 全国準優勝 |
| 2012年 | 光星学院 | 5−3 | 弘前学院聖愛 | 全国準優勝 |
| 2013年 | 弘前学院聖愛 | 4−3 | 弘前 | 全員青森出身で三沢以来の16強 |
| 2014年 | 八戸学院光星 | 8−6 | 青森 | |
| 2015年 | 三沢商業 | 2−1 | 八戸学院光星 | 弘前実業(1996年)以来の県立優勝 |
1996年に甲子園に出場した弘前実業も2000年に1回、青森が2回、青森北と大湊、弘前が1回ずつの計6回ほど県立高校が決勝に駒を進めたが、優勝は18年叶わなかった。
(18年というと、今の青森の高校球児で県立高校が甲子園で戦う様子を生でみた人間はいないのだ。多分)
1996年の弘実以来、12回は決勝が私学対決だったので、県立が決勝に行くだけでもすごい時代だったのだ。
今のところ、最後の決勝県立対決は1992年の弘前実業×五所川原工業。
もう23年も前なのだ。
1992年といえば、前年の1991年に開局したABA 青森朝日放送が高校野球中継を開始した年だ。
これより古くなると、僕の記憶も大分怪しくなってくる。
1989年、石川(沖縄)を破り勢いに乗る弘前工業の前に、八戸二中卒の大越基率いる仙台育英が立ちはだかった試合は記憶にない。
白河の関越えを懸けた決勝で、仙台育英が帝京に負けたのは覚えているんだが…
長くなるが、記憶に残る県勢の夏の甲子園を下に記しておく。
ぼくの記憶に残る青森県勢の甲子園(1)
昭和の試合となると、まだNHKがYouTubeの違法アップロード潰しに本気になる前の、2005年ごろに見ることができた「木造×佐賀商業」は印象深い。
1982年。
佐賀商業・新谷の完全試合達成目前の9回2死で出てくる深浦町立大戸瀬中卒の世永幸仁選手。
世永選手は青森大会に1試合も出ていないから、打率などのデータが皆無なのだ。
木造を間違えて「モクゾウ高校」と読み上げてしまって苦情が殺到し、ディレクターから自分の耳にも入ってきていたのか、NHKの実況アナウンサーもこの展開にはだいぶ焦ったのであろう。
「世永の世という字は世界の世、永という字は永遠の永」
という、モクゾウ高校以上に歴史に残る名実況が生まれている。
なお余談ながら、この実況を担当したアナウンサーは、後に某民放の朝の情報番組の名司会者になる人物である。
(良かったね、木造だとほぼ映らない民放で。)
NHKではなく、大阪ABCテレビの動画がYouTubeに出ていたので貼っておこう。
ぼくの記憶に残る青森県勢の甲子園(2)
もう一つ忘れられないのは1998年か。
全国的に有名なのは、深浦から122点取った東奥義塾だろう。
が、印象深いのはその後だ。
次の試合、東奥義塾は、むつ下北地区の県立進学校である田名部高校に14-2でコールド負けする。
僕の記憶が正しければ、田名部は1994年に青森山田を2-1で倒しており、夏の大会で山田・光星のいずれかを倒したむつ下北地区最後の学校である。
(1994年の山田戦後の東奥日報の見出しは「のびのび田名部 大金星」であった。)
そんな大物食いの田名部であったが、次はむつ下北地区の宿命のライバル・大湊との戦いだった。
義塾を12点差コールドで沈めた田名部は、0-6で大湊に完封負けするのである。
この大湊だが、次の準々決勝の相手は八戸工大一。
なんと2-14で八戸工大一にコールド負けしたのである。
後で知ることになるが、この時の八戸工大一には根市寛貴のお兄さんがいたそうである。
八戸工大一は決勝で、同じ八戸市のライバル私学・光星学院を破って甲子園に出場するが、そう、アレです。
鹿児島実業の杉内の前に、木造以来16年ぶり2回目のノーヒットノーラン負けをやられてしまう。
なんてこった。
その鹿児島実業も、次の横浜高校戦で松坂大輔の前に0-6の完封負け。
ここから先の横浜といえば、延長17回のPLとの死闘(9-7)、松坂登板後に大逆転勝利を飾る明徳義塾戦(7-6)、決勝でノーヒットノーランを達成する京都成章戦(3-0)と、まるで物語や小説のような快進撃が待っているのは誰しもが記憶に残っていることだろう。
122点差で始まった青森大会から見ていくと、横浜の全国制覇はあまりにも強烈に見えるのである。
ぼくの記憶に残る青森県勢の甲子園(3)
県立びいきの僕だが、3つ目は実は1999年の青森山田と2000年の光星学院になる。
1999年は、平内町出身の松野投手を擁す青森山田が、初日第一試合で九州学院(熊本)を3-2で撃破したところから始まる。
まだ、青森代表が普通に初戦突破できると思ってない時代なので(なんたって前年は工大一が鹿実にノーヒットノーラン負けである)、九州学院を倒しただけでフィーバー状態だった。
1勝しただけで嬉しかったのに、次の東福岡(福岡)戦も9-3で撃破してしまう。
青森県勢が夏2勝挙げるというのをリアルタイムで見たことがない世代の僕にとって、青森山田の2勝目は画期的な出来事だった。
同時に、敗戦後の東福岡の監督のインタビューから、今も忘れられない言葉が出て来るのである。
「青森代表に負けたと思っていない」
(全国から優秀な選手を集めているという文脈で)
東福岡は、ほとんどが首都圏や大阪周辺の選手だった青森山田を痛烈に皮肉ったのだ。
ピッチャー平内出身だぞ、と憤ったのは今も記憶に残っている。
青森山田は次の日田林工(大分)も7-4で倒してしまい、なんと三沢以来の青森県勢ベスト8を達成してしまう。
もう、この時の青森市内の盛り上がり方と言ったらなかった。
が、九州勢を次々と倒してきた青森山田の前に立ちはだかったのは、1998年の鹿実に続く鹿児島県勢・樟南高校であった。
松野投手率いる青森山田を応援し続けた夏は、0-4で樟南に負けて終わった・・・
翌2000年は、好投手・斎藤広大と、名川町出身の根市寛貴という2人の投手を擁する光星学院が甲子園へ。
壮行式では当時の金沢監督が「甲子園では昨年の青森山田さん以上の成績を残すことが目標」と宣言。
三沢以来30年ぶりの8強を、本当に更新なんて出来るのかと思った。
初戦は愛媛代表の丹原。
強打で愛媛を勝ち上がってきた丹原と壮絶な打ち合いになりつつ、光星が10-8で初戦突破。
キャプテンの小浜巧聖選手が「タンバラバンバンバンです!」とチームを笑わせて緊張を解こうとしていたのが印象に残る。
2年連続で初戦突破できただけでも嬉しいのに、光星学院は次戦でまたしても九州学院(熊本)を4-3で破り、金沢監督の公約通りベスト8を達成。
で、3年連続で宿敵の鹿児島県勢(樟南)と激突。
投手は名川町出身の根市。
2-0でリードしたまま迎えた9回、樟南が1点を返しなお2死2塁。
樟南の打者が放ったゴロは、ショートの目の前でイレギュラーし、外野へ。
万事休す、同点か。
この時のABA田村アナの応援実況の「あああああああdrftgy!!!」という悲鳴に近い絶叫は記憶にある方も多いだろう。
この窮地を救ったのは、キャプテン小浜巧聖のレーザービーム。
練習でも成功したことがないというバックホームで、走者の本塁進入を刺し試合終了。
八戸工大一、青森山田と2年連続で青森県勢が涙を飲んだ鹿児島県勢を破って、光星学院が三沢以来31年ぶりの4強を決めたのだ。
後に光星学院は全国準優勝まで上り詰めるが、この時ほどの感動はなかった。
次戦の智辯和歌山戦は、悪友と学校をサボってサンロード青森の電気屋の大型テレビ前で観戦。
途中、光星学院が同点に追いつくと、NHKが「意外な展開になりました」と実況。
すると、後ろから「なんだ!NHKこの野郎!失礼だやづだ!」と見知らぬオヤジの野次が。
振り返ると、「昭和30年代の街頭テレビってこんな感じだったのかな」と思わせるような光景が広がっていた。
「10チャンネルの応援実況さ変えろ!」と誰かが言うと、電気屋の兄ちゃんがNHKからABAに変えてくれて、そこからは田村アナの応援絶叫。
が、光星学院も、もう満身創痍だったのだろうか。
智弁和歌山ご自慢のジョックロックの響きに圧倒され、僕の応援の夏も終わったのだった。
帰り際、サンロード隣の食彩バリバリでお好み焼きを食っているときに友人が、光星学院の戦いっぷりをスラムダンクに例えて、「ヤマオー(山王工業)倒した後、愛和学院に負けた湘北みたいだったな」と呟いた。
本当は、1999年の青森山田と2000年の光星学院は別で扱うべきかもしれない。
だが、三沢の準優勝を知らない世代の僕にとって、宿敵の鹿児島県勢との激闘を経て8強、4強と達成して行った両校の快挙は、連続した物語として捉えたいのだ。
この後の2000(ゼロゼロ)年代、山田と光星が甲子園青森代表の座を寡占状態にしてしまい、それは面白さを欠くように思えた時期もあったが、この2校に追いつけ追い越せで青森の各高校が強化に取り組んだのは間違いないだろう。
この2校のどちらかを破って甲子園に出た2010年の八戸工大一も、2013年の弘前学院聖愛も、夏の甲子園で初戦突破を果たしている。
これは、山田と光星の2強時代が青森のレベルを上げた証左と言ってよいと思う。
次は青森県立三沢商業高校がそれを甲子園で見せる番だ。
まずは1991年の弘前実業以来の県立勢の1勝をもぎ取れ!
応援する!
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