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通称「国鉄五川目線」関連歴史年表

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 三沢市街地へ近づくにつれ藪がおとなしくなるかと言えば、そんなこともなく草生したままの米軍専用線を進んでいく(写真左)。先ほどまでの切り通しの上り坂区間を終え、この辺りでは両脇に住宅地が広がり、五川目方に向かって右側には市道も並行している。歩きやすい市道ではなく、廃線上を歩いていると目立ちそうなもんだが、実は現役当時、この米軍専用線を歩く三沢市民は少なくなかったという。
 市民が入り込むポイントの一つであった青森県道8号との踏切跡が目前に来た(写真右)。
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 踏切跡手前に、三沢方を向いて立つ勾配標らしき杭があった(写真左)。「25」・・・よくわからんが、100mで2.5m上る/下るという意味の25‰でいいのだろうか。米軍専用線を三沢方へ下って行く列車に急勾配を伝えるものであっただろうかと想像はつく。ようやくたどり着いた県道8号との踏切跡。野辺地方から三沢市街方面を向いて撮影(写真右)。
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 東北縦貫道八戸線の延伸部分にあたる上北道だが、三沢市の南西端を掠めるように通っている上に中途半端な位置で終点を迎えているため、2015年現在では三沢⇔青森間での利用では短絡効果がまだまだ薄い。一方で県道8号は三沢市街地を抜けてしまえば上北町まで信号がない(押しボタン式除く)というなかなかの快速路なので、迂遠となる上北道には目もくれず利用し続けているクルマが多いように思う。
この県道8号、千曳で南部縦貫鉄道と交差していたり、ご覧のとおり三沢では米軍専用線とも交差していて(写真左)、廃線との縁が濃い路線である。第2みちのく有料道路も含めれば十和田観光電鉄も含め、3本と交差していたことになる。踏切跡を越え、先へ進んでいく。(写真右)。
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 県道8号を越えると、先ほどまでの鬱蒼とした緑の切り通しと異なり、住宅街の中で明るく開けた雰囲気の所が多くなる。レールの脇から一輪のヒルガオが咲いていた(写真左)。路盤も草生した緑から、バラストが露出した場面が多く出現するようになってきた(写真右)。藪の中に比べればだいぶ歩きやすくなってきたところで、思い出した。
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 序盤の藪での、何かの昆虫に刺されたような感じである。刺された箇所が、やぶ蚊に刺されたように固く腫れているのだ。幸い(?)痛みはないが、強烈なかゆみが感じられたので、爪で思い切り絞ると液体が出て来た。可能な限り絞り出すと、腫れは引いていき、あとは傷も残らなかった。一体、何に刺されたのだろう・・・。
 気を取り直して、歩きやすくなってきた米軍専用線を五川目方へと進んでいく。写真をご覧のとおり、現役線と見間違うことはないだろうが、序盤に比べればレールもバラストも鮮明になってきている。
 現役当時は当然、メンテナンスをしっかりしていただろうから、序盤のような藪もないし、この写真の場面以上に線路は鮮明であっただろう。そこを、1日に1本も列車が走らない日が多かったというから、散歩道や三沢駅への短絡コースとして歩く人も少なくなかったのだという。
 実際には三沢駅から三沢基地へは市街地のアーケードを抜けた方が近そうな気もするが、航空祭の日には線路を歩く団体もいたという(物珍しさという意味では、気持ちがわからなくもない)。
 しかし、八戸港からやってくるディーゼル機関車が、タンク車を何両も引っ張って米軍専用線を上って行く場面、廃止前にもう一度見てみたかったものである。僕は小学校の頃に、先ほどの県道8号踏切で一度だけ引っかかった記憶が微かにあるのみである。

(5)へつづく

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