三沢方の記事をみる(クリック)→ (1) (2) (3) (4)
五川目方の記事をみる(クリック)→ (6) (7) (8) (最終回)
通称「国鉄五川目線」関連歴史年表

DSC_0196 DSC_0195
【画像はクリックで拡大します】
 再び、三沢市道と交差するかつての踏切跡に差し掛かる(写真左)。市道を右折した先はかつての三沢の繁華街として賑わった中央町のアーケード方面である(写真右)。全国どこの地方都市でも直面している問題だが、郊外型ショッピングセンター(イオン下田)にやられてしまっているのは三沢の中央町も同じで、シャッターが下りている店が目立つ。それでも、三沢基地や原燃関係の雇用があるお陰か、五所川原や十和田や黒石は失ってしまった『中心市街地の活気』が、三沢にはまだあるように感じる。
DSC_0194 DSC_0193
【画像はクリックで拡大します】
 沖縄の米兵レイプ事件の影響で、MISAWAにも米軍の夜間外出禁止令が施行されて以降、三沢の街に繰り出してくる米兵が減って飲み屋街には影響が出ているともいうが、基地の前から中央町方面へバーや居酒屋の灯が点っている風景を見ると、青森県内の都市が擁する歓楽街の順位としては八戸、青森、弘前の次が三沢であるように思う。ゴミ捨て場のすぐ隣に踏切設備跡のコンクリート構造物が残っていた(写真左)。そしてその先には「L」と書かれた杭。(写真右)。
DSC_0192 DSC_0191
【画像はクリックで拡大します】
 「L」の杭の裏側には、斜めに置かれた「20」の表記(写真左)。序盤の「25」の杭のように勾配を示す20‰でいいんだろうか。事実、三沢基地が近づくにつれ、上り勾配は間違いなく緩やかになりつつある。進行方向右側に三沢市街の建物が並ぶのは変わらないが、左側にあった住宅はこの付近で消え始める。間もなく、左手に米軍の基地が広がり始めるのだ(写真右)。
DSC_0190 DSC_0189
【画像はクリックで拡大します】
 勾配標と思しき杭の数値は「15」に変わり、前方には車止めが見えてきた(写真左)。もう三沢基地の中に線路跡が消える地点が近い。基点の三沢方を振り返ると、右側の三沢基地方面には藪が広がる。三沢基地を出た米軍専用鉄道の列車は、この風景を見ながら三沢、八戸と経由して八戸港の油槽所に行ったのだろう。
DSC_0188 DSC_0187
【画像はクリックで拡大します】
 三沢基地の敷地境界のバリケードが出現し、レールが残っているのもここまでである(写真左)。三沢駅から始まった第1部はここまでとしたい。ここから先は、線路跡が遊歩道に転用されているようで、そうではなく、元の五川目線は基地の敷地に消えているという話も聞いている。
 交差する道路に、雰囲気だけは残っているが踏切跡であったことを伝える遺構はほとんど残っていない。交差する道路は別に一般人が通行しても問題は無いのだが、米軍が設置した「THIS ROAD IS UNDER CONTROL OF U.S FORCE, JAPAN NO RESPONSIBILITY IS ASSUMED FOR TRAFFIC ACCIDENTS ON THE ROAD.」の看板。
 米軍の管理する道路と訳されているけれど、「米軍の制御下にある」という強烈な直訳もできる。しばらく基地の中に消える五川目線の遺構を辿るのは、限りなく不可能に近いものとなる。

第2部 (6)へつづく

blog_rankingクリックでブログランキングに投票!