タイトルの通りだが、「相撲の無い世界」。

相撲王国とも称される青森県で、相撲がない世界線を妄想してみた。
一部、実在の組織名や架空の組織名と人名が登場するがすべてフィクションであり、現実世界のそれとは無関係である。


【幹士】
昭和3(1928)年、青森県中津軽郡新和村青女子にて、水田と林檎の果樹栽培を営む某農家に長男・幹士が生誕する。
青女子の大地で、将来の健康優良児選定は間違いないと期待され成長した幹士だったが、尋常小学校1年の秋に津軽地方を室戸台風が直撃する。
作物に甚大な被害を受けてしまった一家は、新たな働き口を求めて北海道室蘭市に移住した。

幹士は室蘭で国民学校を卒業すると沖仲仕となり、父の代わりに一家の大黒柱として懸命に働いた。
終戦から間もない昭和21(1946)年、室蘭岩木山神社にて地元青森の岩木山神社関係者も参加して大規模な氏子の会合が開かれる。
そこでの幹士の真面目な働きぶりに目を付けた青女子の関係者から、新和村での農地整備や圃場整備の人夫としてスカウトされ、幹士一家は12年ぶりに帰郷する。

昭和24(1949)年に土地改良法が成立すると、幹士は青女子土地改良区の職員として採用される。
翌25(1950)年には末弟の満も誕生。きょうだい10人という大家族を養うべく幹士は懸命に学び、土地改良換地士の国家試験をも突破しつつ、土地の利用を巡っては反対派の農民との厳しい交渉に奔走した。

あるとき、幹士は津軽特有の地蔵様信仰から、畦道の端に佇む地蔵様の前で数珠を握って拝んでいたところを、地主の反対派農民に目撃される。
農民は幹士の信心深い姿勢に感銘を受け、「数珠を下げた名換地士」として東奥日報紙の明鏡欄に投稿したことで、幹士は県内一円で名を上げる。
この件があり、幹士より先に三戸郡三戸町斗川で土地改良換地士を務めるなど県内外で名を知られていた奥山某氏も、遠路はるばる青女子を訪れ親交を深めたという。

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◀ 【現在の弘前市青女子地区。林檎畑が点在する集落内を県道が貫く。】


昭和30(1955)年、傷痍軍人だった父が死去すると、悲しみを振り払うがごとく幹士は土地改良区の業務に邁進。
同年、新和村が弘前市と合併して開始された軟弱地盤の土壌改良事業では、妥協を許さぬ凄まじい働きぶりからいつしか幹士は「土壌の鬼」と称されるようになる。
評判を聞きつけたラジオ青森(現青森放送)関係者によって、昭和32(1957)年にドキュメンタリードラマ「土壌の鬼」が制作されると、自身も出演した。

昭和37(1962)年には34歳の若さで土地改良区専務理事に昇進、以後は土地改良区の後進職員ばかりか、地域の農業従事者の指導にも熱意を注ぐ。
上京せず農家を継ぐ決心をした末弟・満に対しては「弟には甘い」と周囲に陰口を叩かれることを避けるべく、執拗に厳しく指導したという。

昭和43(1968)年、天才農業少年として名が知られていた大鰐町の下山少年と浪岡町の高谷少年をスカウト。
下山少年は後に二代目幹士を襲名するほど大成した。
高谷少年は土地改良区入りを希望していなかったが、幹士に「青女子見物に来ないか」と板柳行の五能線のきっぷを渡され、そのまま入門した。

昭和51(1976)年には青女子土地改良区理事長に就任し、昭和63(1988)年には土地改良区総代に登り詰めた。
総代任期途中の平成3(1991)年には旭日章を受賞し、翌4(1992)年に甥の光司が青森県の稲作農業発展に貢献したとして田中稔賞を受賞した際には涙を流して喜び、県内マスコミから「鬼の目にも涙」と報じられた。

平成5(1993)年に青女子土地改良区を退職し、以後はRABラジオ「農事情報」など農業関係者向けの番組で解説者として活躍した。
平成22(2010)年、弘前市の弘前大学病院で逝去。82歳。



【満】
昭和25(1950)年、青森県中津軽郡新和村青女子にて誕生。
父は傷痍軍人だったため、土地改良区職員だった長兄・幹士の給与と農作物生産が一家の主な収入源だったという。
仕事熱心で家庭になかなか帰れなかった長兄の幹士は、満が5歳になるまで姉の息子―すなわち甥と誤認しており、両親から満が実弟だと聞かされ仰天したという逸話がある。

末子であったことから幼少期には「ヨデコ」(津軽弁で末子の意)として一家の寵愛を受けながら育つも、砂沢溜池で鍛えた泳力で弘前市立新和中学在学中にバタフライ競技で日本記録を樹立。
水泳選手としてオリンピック出場も期待されながら、幹士の背中を見て育った満は土地改良区への就職を希望する。

土地改良区に採用されてしまうと「弟には甘い」と周囲から疑念を持たれかねない相談に、「土壌の鬼」と呼ばれた幹士は色をなして拒否したという。
結局、地元の名士である幹士の弟という縁故が不利に働くわけがなく、中学卒業と同時に満は農業協同組合(農協)に就職を果たす。
社会人になった満は15歳ながら幹士から毎晩のように大量の飲酒を強要されたといい、後の体調不良の遠因として影を落とすことになる。

農作業においては手作業においてもトラクターなど農作業機械の操作においても、手足の動きは非常にしなやかであり、多くの農業関係者が「満の下半身にはもう一つの生命がある」と激賞した。
また、甘いマスクは女性人気においても抜群であり、鍛治町に酒を飲みに出かけた際には満の周りに弘前一円のホステスが人だかりとなっていたと言われる。
満と出かけると女性に囲まれることから、満は男性からも人気が高く「農協青年部会のプリンス」と称された。

昭和46(1971)年には長男の勝が誕生し、翌年には次男の光司も誕生し、男児二人に恵まれた。

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30歳を迎える昭和55(1980)年、農協職員を退職し、甘いマスクの青年部会のプリンスに着想を得てメロン栽培に着手。
スイカやメロンの産地として知られる西津軽郡木造町の屏風山方面に農地を購入し、弘前市から版図を大きく広げた。

また、長男の勝と次男の光司が幼いうちから農業指導に力を入れ、息子たちが農業従事者となる道筋をつけた。

後年は、若い頃に強要された過度の飲酒の影響か内臓の病を患いがちとなり、後の勝と光司の対立時には兄弟仲を取り持つことが期待されるも果たせず、息子たちが決裂する展開となってしまう。
平成17(2005)年、満は55歳の若さで早世した。



【勝と光司】
「青年部会のプリンス」と呼ばれた父・満のもとに生まれ、「土壌の鬼」と呼ばれた幹士を叔父に持つ彼らは、幼少期から農業従事者としての才能の開花を期待され育てられた。
小学生時代から地元マスコミには「プリンスの息子の農業兄弟」として取り上げられ、父と共にテレビやラジオに出演するなどしていた。

昭和63(1988)年、兄の勝と弟の光司は同時に農業従事者となる。
兄の勝はどちらかといえば叔父の幹士似と言われる一方で、父の満似と評された光司は父譲りの器用な素質が早くから注目されていた。

父譲りの才能をやっかむ周囲の雑音が耳に入った光司は、その悔しさから林檎畑でマニュアルトランスミッションの軽トラックのクラッチ操作を一人で猛特訓。
17歳にして林檎運搬用の大型トレーラーの牽引までこなし、運転免許センターの試験官を驚かせたという。

兄の勝は農業はやりたくないと周囲にこぼしていたが、その度に父や叔父に竹刀で殴られながら取り組み、弟に1年遅れるも一通りの農業用車両や機材の操作を習得。
人あたりの良い兄の勝は周囲から「お兄ちゃん」と慕われ、徐々に農業の才能を伸ばしていった。

平成4(1992)年、光司は水稲品種つがるおとめの生産で優れた品質と高収量を誇る技術を確立し、青森県の稲作農業発展に貢献した者に授与される田中稔賞を史上最年少で受賞。
光司の経営する水田の10aあたり単収は850kgにも及び、全国平均を300kgも上回るもので、「土壌の鬼」と呼ばれ畏れられた伯父の幹士も涙を流し喜んだ。
翌5(1993)年には全国的な大冷害に見舞われる中で、勝も10aあたり単収650kgという驚異の生産量を記録し、生産者別コメ単収量競争で初の国内優勝を果たすなど、兄弟の活躍は青森県内で空前絶後の農業大ブームを巻き起こした。

プライベート面では、兄の勝が平成6(1994)年に弘南バスのバスガイドと結婚。
弟の光司は翌7(1995)年に8歳年上の女性とできちゃった結婚し、長男の優一が誕生。
女性の職業は地元民放局のアナウンサーであったが青森県にフジテレビ系列局はなかった。

伯父の幹士の土地改良区退職と農業解説者への転身の時期と重なったこの時期、父の満は幹士の農地を譲り受けて作業に集中することを決め、木造町の屏風山のマスクメロン・プリンスメロン栽培を勝と光司の兄弟に託していく。

屏風山のメロン栽培は上手く軌道に乗ったかと思われたが、平成10(1998)年の「洗脳騒動」で風雲急を告げる。
占い師の独自の手法で行われる無農薬栽培や自然農法に傾倒する光司に対し、農協や同業者との連携を主張する勝が対立。長年の確執が表面化した。

兄弟の対立は根深いまま時が過ぎ、平成17(2005)年に父が死去すると葬儀の喪主の座を巡って激しく対立。
以後、両者は絶縁状態に陥ってしまう。

光司は農業生産法人を設立し、つがる市(旧木造町)の屏風山のメロン栽培事業を法人化。
県内外から農家を志す若者を雇い、後進の指導にあたって行った。

平成22(2010)年、叔父の幹士が弘前大学病院で死去したこの年、同じ弘前大学の付属幼稚園から付属小学校と進学してきた光司の長男・優一も同付属中学を卒業し、県外へ留学。
優一は留学中に福島県で見物したわらじ祭りに影響を受け、実家の水田から出される稲藁を用いて草鞋職人になることを決意する。

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◀ 【光司の元へ謝罪に訪れるも門前払いを受けうつむく杉野森氏。青森県つがる市(旧西津軽郡木造町)出身】

平成29(2017年)、無農薬・自然栽培を行っていたつがる市木造の生産法人で大規模な病害が発生し、隣接する杉野森某の園地に被害を及ぼしてしまう。

これを巡って杉野森の下で農業を学んでいた県外出身実習生が、光司の生産法人に勤務する同郷の後輩を呼び出し、説教しながらビール瓶や拳で殴打する暴行事件が発生する。

事件発覚後、光司側はつがる警察署に暴行事件として告訴。
杉野森は実習生を伴い、光司の生産法人へ直接謝罪に訪れるも光司側はこれを完全に拒絶し、示談による和解は絶望的な状況となる。
実習生は責任を感じ、農業を引退することを決意し、その実習生の才能を惜しむ杉野森や農協関係者と光司の対立も深まって行った。

週刊誌報道によると、光司の生産法人側が謳っていた自然農法の実態は文字通り自然に任せる手法であり、必要な管理すら怠っていたため耕作放棄地同然の状態になっていたとされる。
生産法人の実態を暴露する「荒廃した農地 放置した後輩 態度にNOだ ノータッチの能天気にグーパンチ」とのラップがつがる市農協に届いたとされるが、大阪府出身のラップが得意な実習生Uはこれを否定している。

和解を望む杉野森・農協サイドと強硬な処分を求める光司側の対立が長引く中で、翌30(2018)年には光司の農業生産法人内での職員による暴力沙汰が発覚。
これは光司側支援者を裏切る形となってしまい、窮地に追い込まれた光司は農業生産法人の解散を決定した。
光司の生産法人に勤務していた職員らは、かつて叔父の幹士が育てた高谷の弟子である金尾が経営する農場への転職が斡旋され、全員の職が維持された。

生産法人解散後、光司の長男・優一の草鞋店に発注された草鞋が顧客に発送されず返金にも応じていないトラブルが明るみとなり、優一が所属していた商工会からも除名処分を受けていたことが発覚。
光司が23年連れ添った8歳上の元民放アナウンサーと同年10月に離婚していたことも判明した。


重ね重ねになるが、この駄文はすべてフィクションであり、現実世界のそれとは無関係である

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