当ブログは以前、東日本フェリー「幻の佐井航路」は実在したのかという記事を書き、その中で以下のような地図を掲載した。

青森県⇔北海道 フェリー航路一覧図
青森県⇔北海道 フェリー航路一覧図
【上の地図はクリックで拡大します。】

あくまで青森県・北海道間のフェリー航路関係図なのでそこはご注意を。
(室蘭港を航路が消滅した港湾としているが、記事公開後に岩手県の宮古港との間に航路が復活している)

今回は青森県側でフェリー航路が消滅した港湾のうち、野辺地港を見て来た。

まず、野辺地港に就航していた東日本フェリーの歴史について、ざっとまとめよう。
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この航空写真は国土交通省が公開している1975(昭和50)年の野辺地フェリーふ頭付近のものである。
写真を左右(東西)斜めに横切るのが旧国道4号(青森県道243号)で、野辺地川の左岸に築港されたフェリーふ頭に2隻のフェリーが係留されているのが見える貴重な写真だ。

簡単に野辺地航路と、野辺地周辺の道路の歴史を年表にするとこうなる。
年月出来事
1969年7月東日本フェリー・野辺地−函館航路就航
1971年4月函館商船・野辺地−函館航路就航
1976年5月函館商船・野辺地−函館航路を、東日本フェリーに譲渡
1979年9月東北自動車道 大鰐弘前ー青森開通
1980年10月東北自動車道 碇ヶ関ー大鰐弘前開通
1980年11月みちのく有料道路(天間林村−青森市)開通
1986年7月東北自動車道 十和田ー碇ヶ関開通、浦和−青森が繋がる
1993年9月東日本フェリー・野辺地−函館航路の夏季季節運航が終了(最終運航)
1994年4月東日本フェリー・野辺地−函館航路が運行再開せず(事実上の廃止)

青森県道路公社のみちのく有料道路の説明によると、一般国道4号交通渋滞が著しく、県内の産業経済のみならず北海道の物資の輸送面にも大きな影響を与えていた”と、野辺地を短絡回避する同有料道の建設背景を説明している。

東北自動車道
開通前において、北海道や青森県から首都圏への自動車交通のメインルートは国道4号であったことはほとんど疑う余地のないところである。
青森港フェリーターミナルは青森市街地の西部にあったので、青函航路で東京方面へ向かうには青森市街地の通過や国道4号の渋滞があったが、青函航路+1時間程度の所要時間(最終運行当時で4時間40分)となる野辺地航路にはそれらのリスクをバイパスして東京方面に南下できる強みがあったのだろう。

だが、みちのく有料道路の開通や東北自動車道の開通のみならず、八戸や仙台、大洗と苫小牧を結ぶ太平洋航路や、新潟や敦賀などと道内各港を結ぶ長距離航路の発達もあって、野辺地−函館航路の需要が徐々に薄れ廃止に追い込まれた、というべきだろうか。

今も何らかの痕跡が残っていないものか、2019年7月13日午前に見に行ってきた。

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まずは航空写真で上―すなわち北側にフェリーが接岸していた方を見に行く。フェリーふ頭入口から見れば奥、という位置関係だが、いかにもフェリーの跡地といわんばかりの形状が残っているじゃないか。
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さっそく接近してみる。可動橋とかは残っていないが、係留されていたフェリーの姿が想像できるような雰囲気だ。写真に写っていないが、このすぐ横ではマンガ本を読みながら釣り糸を垂れる太公望がいた。
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可動橋と乗り込み口があったと思われるくぼみ。まずは右側に移って左側を見てみる。この形状、海鳥から隠れたい魚がいかにも好みそうな日陰を海底にもたらすし、もともとフェリーふ頭なので深さも十分。
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この条件なら私もアイナメでも狙ってブラクリの糸を垂らし落とし釣りといきたいところだ。釣り人に配慮し反対側、右から左側も写してみる。
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せっかくなのでフェリー就航当時の話を聞けないかと周囲を見回すが、ここで釣り糸を垂れる太公望の愛車は八戸ナンバー。野辺地は上北郡にありながら青森ナンバーの交付地域ゆえ、彼が地元民ではない可能性もあるので、聞き込みはやめた。
北側のフェリーふ頭はこれにて後にする。

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つづいて南側のふ頭に移動。旧国道4号の野辺地川の袂からすぐの位置にあたる。僕自身も、親の運転する車で下北半島に出かける際に、ここにフェリーが係留されているのを見た小学時代の記憶はある。
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釣り人たちの会話に耳をそばだてて、野辺地町民であろうとの考えに至り、意を決してフェリーについて話しかけてみる。
「すいません。フェリーのことについて調べてるんですが」
「もうフェリーなんか無ぇよ。こっから函館に行けねえよ」
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なんとも強烈な一発が返ってきたが、丁重に下手(したて)に出て「昔、ここから出ていたフェリーのことで調べものしてるんです」と会話をこころみると、「おお、こっから出てたけど。フェリーって俺が子供の頃だぞ?」と言う。まさかの同年代か。
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やはり記憶通りフェリーふ頭の位置で間違いない。ついでにフェリーターミナルの位置を訪ねると、右前方の緑色の建物の方を指して、「あの辺。2階、いや3階…やっぱ2階建てだったかな。ちゃんとした建物。売店だのもあった」と教えてくれた。別の釣り人も「食堂もあったんでねがったが?」と会話に加わる。ありがたい情報が手に入る。
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釣り人たちに礼を言って、ターミナル跡の方に徒歩で向かう。フェリー廃止後にひかれたとみて間違いない新しい駐車場の区画白線だが、往年の大型車用の枠のようにも見える。
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緑色の建物に接近してみるが、これはフェリーターミナルとは関係のない建物のようだ。建物右側、今は更地となってプレジャーボートが安置されている草地がフェリーターミナルビルの跡地のようだ。
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かつてのフェリーターミナルを背に、函館に向けてフェリーが出て行った湾口を望む。野辺地港は旧盛岡藩領にあり、盛岡藩が京や大坂とを結ぶ西回り航路の外港として利用した港である。今でこそ内陸盛岡の外港といえば八戸港か仙台港という感じだが、藩政時代は野辺地が重要港湾の筆頭格だっただろう。
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ここでまた高齢の紳士が現れたので、話を聞かせてもらえないか頼んでみると、快く「ターミナルは緑の建物の横の空き地だ。艫(とも)を付けたのは、あのコンクリートが新しい所だ。フェリーの跡を壊して新しくしたから」と詳しく教えてくれた。
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紳士は「フェリーターミナルは2階建てだったよ」と言う。先ほどの釣り人の証言とも一致し、間違いなさそうだ。
野辺地の小学校の修学旅行先は函館なので、紳士に「フェリーがあった頃はここから函館に行ったものですかね?」と尋ねると、「それはわからないな。その頃だけ野辺地にいなかったんだ」という。
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紳士のおかげで可動橋のあった位置も判明したが、「残ってるもの…ほとんどないんだけど、あれだけはあるな」と、釣り人が腰掛けるボラード(係留柱)を指す。野辺地港の生き字引みたいな人だなと直感で、先ほどの北側(奥)の埠頭について尋ねてみると、「あっちは函館商船。こっちが東日本」と即答!
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よく見ると、可動橋の跡にレールのような跡も残っているではないか。ところで函館商船といえば北日本最大の造船会社・函館どつくの旧社名・函館ドックの関連企業である。1970年代半ばの造船不況で、函館ドックから東日本フェリーに野辺地−函館航路を譲渡されたものである。
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函館市史にも出てくる「フェリーブーム」の右肩上がりの時期にあたる1971(昭和46)年に野辺地−函館航路を就航させた函館商船だが、函館港発着航路は1973(昭和48)年をピークに減少に転じてしまう。オイルショックによる個人消費の低迷でマイカー利用による函館商船のフェリー利用が減少するばかりか、韓国の造船業の台頭によって発生した国内造船業の構造不況に本体の函館ドックも陥ってしまった。
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こうしてわずか5年の運航期間で函館商船は野辺地航路から撤退したが、東日本フェリーに譲渡された同航路は1994(平成6)年まで延命されることになった。もっとも、最後の頃は夏季季節運航(1日1往復)で、野辺地航路は1993(平成5)年の8月いっぱいを最後に休航となる。
1993年の夏季季節運航(4月20日〜8月31日)の運航最終日は同社のダイヤによると、野辺地港8月31日17:00発→函館港9月1日21:40着が野辺地を出る最後のフェリー運航となり、そして折り返しの函館港22時30分発→野辺地港3:10着が函館から野辺地に着く最後のフェリー運航だったようだ。
翌春の再開を見込まれていたはずが1994(平成6)年4月に夏季運航を再開せずに事実上の廃止となったのである。


といったところで、野辺地港のフェリーふ頭跡の視察は終了し、次の港へ向かう。
もう一つのフェリー港跡を見に行くというのは、まあ「ついで」のようなもので、本来の目的は旬を迎えた津軽海峡のイカなのだが、今年は7月の3連休でもイカが揚がっていないらしい……

次回へ続く

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