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通称「国鉄五川目線」関連歴史年表
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 今回からは、2015年に青い森鉄道(東北本線)三沢駅から米軍三沢基地まで歩いた三沢米軍専用線の廃線跡の続きだ。
 三沢基地内は一般人が立入不能で、基地外からレンズを向けただけでも監視カメラで見ている米軍関係者が声掛けに来る。というのも、この写真は2015年の探索時に撮影したものだが、直後にゲートのブースから米軍関係者の服装をした南部弁(おそらく八戸の湊とか白銀、階上など浜の方の人だと思う)の係官が出て来て、撮らないでくれと言うのだ。ただの観光客だと弁解し事なきを得たが、怪しいことはできない。まずは航空写真での観察だ。
MISAWA RAILWAY
【画像はクリックで拡大します】
 三沢市街地、三沢基地内に残る線路跡を国土地理院の航空写真に加工したもの。
 三沢市中央町2丁目付近で一般人が探索可能な区間は終わり。ゲートから先はアメリカ合衆国の敷地であり、件のゲートの横のビジターセンターは平畑1丁目ということになるようだ。基地内の線路も一般開放の際に見学も可能だというが私には機会がない。
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 航空写真を見れば線路は既に剥がされてしまっている箇所も長いようだが、線形が明瞭に見える。五川目方で線路跡に再び接近可能な地点は岡三沢8丁目からだ(写真左)。住所上は岡三沢だが、平畑温泉の裏手にあり、かつての平畑地内は米軍基地の敷地に広く取り込まれているのだとわかる。ここから、県道10号(主要地方道三沢十和田線)の北側に並行し、沿岸部の五川目を目指して進む市道が鉄道の跡だという。
五川目線
 2019年2月に密かに基地内にスマホを向け撮影したもの。鉄道のバラストとレールが見えていた。


 岡三沢8丁目から、五川目集落跡まで市道を走行したのをタイムラプスにて。
 岡三沢以降は市道に転用されていてほとんど痕跡は残っていないと言われ、実際に私も痕跡らしい痕跡を見つけることはできなかった。
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 三沢基地から伸びてきた市道が国道338号に突き当たった先の様子。三沢市五川目は航空機騒音の対策で集団移転が完了しており、かつての建築物はすべからく取り壊され防衛省管理の更地になっている。この付近に、何らかの鉄道関連施設があったようだが、詳細は不明だ。
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 五川目に線路があった頃の航空写真を掲載する。国土地理院が公開している、1947年11月11日にアメリカ軍によって撮影されたもの(整理番号 USA、コース番号 M638、写真番号 18)である。
 写真左下(南西方向)から伸びてきた五川目線は五川目集落の南端付近で方向を東に変える。集落南端には旅客駅ではないだろうが、何らかの鉄道構内のような敷地や建物のようなものもみえる。
 その先、海岸林内で弧を描いて反転し北向きに変え、五川目集落の東側で終わっている。この痕跡なら今もあるだろう。
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 線路跡を絞り込むため、南側の水路が海に流出する砂浜の位置をまず見に行く。奥入瀬川河口以北、高瀬川河口以南の百石(現おいらせ町)と三沢の沿岸部には一から六までの「川目」集落がならんでいる。三沢市史には「地引網で季節的出漁した人々が、水を求めて遂に定住するに至った所謂川目衆落」とあり、いずれも外から太平洋の魚介類を求めてやってきた漁業者の定住化が集落誕生の由来のようだ。
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 海岸林を抜けて砂浜に出て右手─南側を望むと、津軽の七里長浜などとは違って黒みを帯びた砂浜の彼方に、重工業都市らしく煙を上げる八戸の臨海工場群や、その背後に県境の階上岳が見えた。
 続いて左手─北側は、柵に囲われた松の幼木がずらっと規則的に広がっており、海にはサーフィンに興じる人々も見えた。
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 コンクリートの暗渠から水が流れ、砂浜を切り裂いて太平洋に注いでいた。五川目の内陸の水田を潤した用水は、かつて集落のあった丘陵部を地下で潜り抜け海に排水されている。暗渠を覗き込むとけっこう距離があるようで、先の明かりは見えなかった。
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 暗渠から吐き出される用水が砂浜を深く抉る断面もまた黒味を帯びていて、砂鉄とともに含有が高いことで知られる粘土を感じることが出来る。三沢市史によれば「おそらく鎌倉時代の中期から、室町時代の終り頃」から製鉄を営むタタラ集団と鍛冶が集まって来ていたとされ、ラムサール条約指定地の仏沼南方にある金糞平は、製鉄の過程で発生する金糞すなわち鉄滓を集積させた場所に由来するらしい。
 そんな砂鉄が豊富な海岸林の中に、いかにも人工的な盛り土が見える。あれが軌道跡か。
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 長谷川典雄(1965)「八戸工業地区の形成過程」によれば、日中戦争勃発の1937(昭和12)年に八戸が国土防衛工業立地地域に指定されると、日本砂鉄鋼業(日本砂鉄)が八戸に進出して三沢周辺の砂鉄を用いた製鉄に着手した記録がある。
 これを受け国鉄が五川目線の建設に関与し、1944(昭和19)〜1946(昭和21)年の約3年に渡って日本砂鉄が五川目線を利用して八戸工場まで砂鉄を輸送したらしい。
 砂浜を後にし、軌道跡を目指すと左手に見えてくる敷地は、件の航空写真では何らかの鉄道用地に見えた一角だが、往時はここに日本砂鉄工業の施設があったのかもしれない。

 では廃線跡に入ってみようと思うのだが、こちらはGoogleストリートビューの画像。真夏の激藪期という感じでもないが、やはり草木が生い茂る時期は不向きなのだ。夏場は有害であったり不快な動植物の発生が多いだけでなく、草木が廃線跡や廃道跡を覆い隠してしまう。
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 予想以上に築堤が残ってた。やっぱ探索は冬だよねえ。
 岡三沢から五川目にかけては先述のとおり市道敷に転用されてしまったのもあるが、岡三沢から東岡三沢・三沢下沢にかけては宅地化し、三沢北山・三沢上野・三沢下野にかけては水田、五川目地内でも宅地化(のちに集団移転で更地化)したのも、五川目線の痕跡をたどるのを難しくしたと考えられる。
 一方で五川目の旧集落東側の海岸林では林野庁の管轄地となり、宅地や農地へ転用されることがなく、廃止から70年を経た2020(令和2)年の今日も築堤が明瞭に残ったのだろう。
 
 (7)に続く。

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