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通称「国鉄五川目線」関連歴史年表
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 前回までは「三沢米軍専用線」をタイトル名に採用していたが、今回から「淋代砂鉄専用側線」に変更する。「日本砂鉄鋼業線」に仮変更としたい。理由は、正式名称がわからないためだ。一応、「国鉄五川目線」という通称自体は地元にも有り、例えば八戸市に本社を置き、三八上北地方と下北地方と岩手県北を主要購読地域にするデーリー東北の2006(平成18)年7月7日の朝刊一面トップ記事「JR三沢駅−三沢基地間の専用線11月にも開放」の本文内にも「国鉄五川目線」という記載はある。
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 国鉄の路線の正式名称として「五川目線」は存在しなかったと見ているが、地元での通称として当ブログも使用したい。正式名称こそはっきりしないが、確実に、五川目の海岸林の中に今も痕跡が残っているのだ。
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 新潮社の「日本鉄道旅行地図帳 2号 東北―全線・全駅・全廃線 (2)」も刊行と同時に購入したのだが、五川目線は名称どころか路線自体が地図に載っていないのだ。かなりマニアックな森林鉄道や軽便鉄道でも載っている同書にまったく取り上げられていないとは……。実はここに1067mmのレールがあったのかも探索後の今となっては疑問が残る。
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 廃止後70年を経た路盤には既に根を下ろした木も生えているほどだが、太平洋から吹き付ける冷涼な北東風のヤマセを直接浴びる海手の松の木は陸側に斜めに傾き、ついには幹ごと折れて路盤に横たわるものもある。北東風をヤマセと読ませ「木崎野の北東風(ヤマセ)は強し」で始まるのが県立三沢高校の校歌である。
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 一方で、築堤の弧の内側の立ち枯れた木々は、隣の四川目集落出身の知人によれば「3.11の津波で海水が溜まって塩で枯れた」という。東日本大震災翌年の2012(平成24)年に三沢市教育委員会が発行した「東日本大震災 三沢市の記憶」によれば、五川目では7.9mの津波が国道338号を越えて押し寄せ、「路上に建物の残駭や壊れた漁業用具、船等が散乱し、交通に支障をきたし」たとある。
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 先の震災で津波が越波した築堤のカーブを振り返る。
 向かって左側の太平洋から押し寄せた7.9mの津波は五川目線の築堤を越え、弧の内側に押し寄せ海岸林の松を塩水に浸した。その先は比較的標高があるので津波の遡上は留まったが、五川目排水路がある谷筋など標高が低い所は津波が国道338号を越えたという。集団移転前なら、五川目集落にも甚大な被害が出ていたはずだ。
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 国土地理院の過去の航空写真を見ると、1975年9月30日撮影(整理番号 CTO7514、コース番号 C41、写真番号 34)の航空写真では築堤の弧の内側も外側も濃い緑色の海岸林の植生が確認でき、震災直後の2011年4月5日に撮影(整理番号 CTO20111X、コース番号 C3、写真番号 4)の航空写真でもまだ弧の内側の海岸林は緑色をしている。岩手県陸前高田市の名勝・高田松原の「奇跡の一本松」も後に枯死したように、塩害に強いと言われる松であっても津波を喰らって海水に長い時間浸ると枯れてしまうのだ。
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 震災の際、仙台市では仙台東部道路
が津波の内陸への遡上を食い止め、高速道路の盛り土の防災効果が注目されたが、津波の越波を許した五川目線では皮肉にも築堤の存在が排水効果を妨げることになってしまったのだろう。津波が引いた後に排水が進んだ海側の松は今も生きているが、内側は枯れてしまっている。
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 太平洋を目前に弧を描いた築堤は緩やかに下り勾配で北西に向きを転じた。この先は、津波が国道338号を超えたという標高の低い地域である。津波被災地の状況調査を実施した東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループの、北海道大学チーム(西村,伊尾木)の調査によれば「幅約150mの植林地帯が続いている.津波は植林地の中を浸水した.調査地点では,植林地を抜けて322m内陸まで遡上」したとある。築堤の弧の内側に海水が溜まったという、四川目出身者の話とも整合性が取れる。

 (8)に続く。

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