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 五川目集落の路地跡。三沢の市史に無いのなら、南部の親分である八戸市の市史にあたろう。通称五川目線の砂鉄の行き先は八戸だったのだし、資料の当たり先としても合理的だろうと八戸市史を読むと、やはり正解に近づいた。
 1891(明治24)年に東北本線が青森まで全通。1894(明治27)年八戸支線が尻内駅(現八戸駅)から新井田川河口(現在の小中野の第二魚市場付近)まで延伸され、湊駅が開設。
 1937(昭和12)年に日東化学工業が馬淵川下流右岸に進出後、八戸支線の湊駅からスイッチバックする形で日東化学工業敷地に専用線が引き込まれた。
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 (6)の記事で触れた長谷川典雄(1965)「八戸工業地区の形成過程」では日本砂鉄工業の八戸進出も1937(昭和12)年とされているが、当の日本砂鐵鋼業(1975)「日本砂鐵工業四十年史」によれば日本砂鉄鋼業の八戸工場稼働は1940(昭和15)年12月だという(日本砂鉄工業から日本砂鉄鋼業に社名変更したのが同年2月である)。
 日本砂鉄鋼業八戸工場の稼働とともに、日東化学八戸工場の引き込み線から分岐する形で日本砂鉄鋼業にも専用線が引き込まれた。
日本砂鉄鋼業国鉄北沼専用線
◀北沼砂鉄採掘場(日本砂鉄鋼業四十年史より)
 「日本砂鐵鋼業四十年史」によれば、「原料砂鉄は主として馬淵川の対岸4キロ東北に位する北沼選鉱場から空中索道で直送するほか、この北沼鉱区から太平洋海岸に沿って連続する百石鉱区及び三沢鉱区からも人力で選鉱した砂鉄を東北本線下田駅、沼崎駅から工場専用側線に貨車輸送していた」とある。この一文に付属して、ご覧の北沼砂鉄採掘場の線路の写真も出てくる。
 八戸の北沼(河原木北沼)といえば、現在の八戸臨海鉄道の北沼駅や、八戸精練や三菱製紙八戸工場が立地する方面だ。八戸臨海鉄道線の前身の青森県営鉄道より前に、日本砂鉄鋼業の軌道があったということになる。
 しかしだ。空中索道があったことも驚きなのだが、下田と沼崎(現上北町駅)からだと、五川目線は関係ないではないか。
 五川目の砂鉄と関係ないのか!?
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 と早とちりしそうになるが、三沢市史によれば1941(昭和16)年に海軍三沢航空基地が開設されるとともに古間木ー海軍基地間に線路が造られる。三沢郷土史研究会(2018)「郷土史三沢第14号」p106には海軍三沢航空基地の図面が掲載されており、五川目へと伸びていく前の、航空基地内で行き止まりの線路の様子が確認できる。
 海軍三沢航空基地の工事段階から、線路の利用があった可能性はあるが、通称五川目線の起源はこの1941(昭和16)年と私は判断した。最初の開通区間は古間木(現三沢)−海軍航空基地内(現在の米軍三沢基地内)である。
 さらに「日本砂鐵鋼業四十年史」を読み進めると、「昭和18年から(中略)古間木駅に連なる約3キロの専用線と、これから北方各鉱区に沿う延長12キロの軽便軌道や移動式選鉱機など、一連の機械化に着手した」とある。
延長12キロの軽便軌道!?DSC_6485
 軽便軌道はさておき、何本かの路地跡を見ながら進むと五川目堤から流出する川に架かる橋が見えて来た。少なくとも米軍の航空写真を見る限りでは川の先には線路は見えていなかったはずだ。
 日本国有鉄道(1973)「日本国有鉄道百年史 第11巻」によれば、1944(昭和19)年に淋代砂鉄専用側線の委託工事を実施したとあり、「東北本線(古間木ー現・三沢ー・五川目間約5㌖,終戦時ほぼ完成),淋代砂鉄山」とある。ほぼ完成という表現が引っかかるところではあるが、日本砂鉄鋼業は戦時中に軍需会社に指定された会社であり、淋代砂鉄専用側線ー通称五川目線を暫定利用しても不自然ではないだろうと考え、五川目に鉄道が走ったのは1944(昭和19)年と判断した。
 では、いつまで淋代砂鉄専用側線は日本砂鉄鋼業によって利用されたのだろうか。「日本砂鐵鋼業四十年史」によれば、終戦直前の1945(昭和20)年8月10日早朝のグラマンによる八戸空襲が激しく、工場の被災こそ免れたが「各工場作業員たちは郷里に帰ってしまい、各社とも作業不能に陥った」とある。1944(昭和19)年3月に着手した海面鉄溶解の電気炉設置も、敗戦と同時に「ピリオドを打つ」
日本砂鉄鋼業八戸工場国鉄専用線(40年史より引用転載)
◀八戸工場国鉄専用線(日本砂鉄鋼業四十年史より)
 終戦後、八戸工場では砂鉄精錬用に大量にあったソーダ灰から重曹を作って自家製パンの膨らし粉としたところ好評だったので生産に踏み切りドル箱となるが、物品税の問題に抵触したようで「税務署の横ヤリで中止」とある。以後、南部鉄器(南部鉄瓶)や釘の生産を模索するも工場漏電火災などがあって頓挫。化学工場への転換を目指し、搾油、アミノサン醤油、石鹸、酸化チタンなど生産を試みるも、いずれも不採算であったという。
 1949(昭和24)年にはGHQ財政顧問のジョセフ・M・ドッジの来日による所謂「ドッジ旋風」が起き、同年12月に八戸工場は操業中止となる。
 日本砂鉄鋼業は40周年の社史を出版した3年後の1978(昭和53)年、江東製鋼と共に合同製鐵に合併され歴史に幕を閉じたが、日本砂鉄鋼業本拠地の兵庫県姫路市飾磨区には今も合同製鐵姫路製造所があり、同社の生産拠点の一つである。
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 振り返ってみるが、線路の跡が全然わからん。
 「日本砂鐵鋼業四十年史」では線路を利用した具体的な期間が定かでないが、ヒントとなるのが日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1966)「盛岡鉄道管理局15年史」だ。海軍三沢航空基地を接収した連合国による三沢航空基地建設のため昭和21年6月から米軍三沢基地専用線の工事が始まったとされる。航空基地の工事が始まったとなれば、もはや砂鉄の輸送など止まっていると判断するのが妥当だろう。ネット上の情報通り、通称五川目線の終焉は1946(昭和21)年なのだろう。
 そして核心的なのが、日本国有鉄道仙台駐在理事室(1971)「ものがたり東北本線史」。
 「三沢航空基地の建設資材輸送」という項でこれに触れ、「5.6㌖の通称五川目線という、日本砂鉄会社の専用線が太平洋岸まで延びていた」という一文がある。同誌には、アメリカ軍に要求されて必死の資材輸送を強いられた仙台鉄道管理局(仙鉄局)の記録が克明に描かれているばかりか、私が検索した限りにおいては国鉄の発行した文書で「五川目線」の文字が出てくるのもこれが唯一である。
終戦時の三沢専用線(国鉄仙台 ものがたり東北本線史より)
◀終戦時の三沢専用線(ものがたり東北本線史より)
 「ものがたり東北本線史」によると、「古間木駅から専用線の入口までを三沢本線と呼んでいた。駅構内の分岐点から約1.5kmの間は1,000分の25の上り勾配で、しかも半径200辰離ーブとなっているという条件の悪い所である。10数両の石材を運ぶのにも補機を必要としたが、最盛期にはD51を前部に3両、後部にも補機をつけるという、ものものしい運転ぶりであった」とある。この記事の(3)においてエロ本を発見した辺りの急勾配区間がまさにそれだろう。(4)では実際に25‰を示す勾配標識も発見している。
 アメリカ軍から要求された資材輸送の量は膨大で、急勾配や急カーブの存在する三沢本線や入換線の不足から仙鉄局は要求の半分も輸送できないと反論するも、米軍側の態度は「理解しようとしない」「一方的」であったという。結局、「古間木めがけて押し寄せる貨車の大群は東北本線ばかりでなく、奥羽線や支線区にまで溢れ(中略)、東北本線白河以北、奥羽線常磐線の各駅にまで(中略)抑留貨車があ」るという輸送パンク状態に陥る。苦肉の策として、仙鉄局は取り卸し線の改善や、米軍の命令によってD51の入線が可能な線路にすべく、当時の金額で50万円の補強工事を実施している。
 なお、一部の書籍やウェブサイトで、三沢駅から米軍基地までの鉄道は米軍基地の工事のため1946(昭和21)年に敷設されたとするものもあるが、これは上記の補強工事を誤認したものだろう。「盛岡鉄道管理局15年史」にも「三沢航空基地への専用側線の保守並びに補強が指令された。この側線は戦時中海軍三沢航空隊のために敷設された6キロ300メートルで、この工事は21年11月から22年5月まで行われた。そのほかに側線基地内の線路増設等が行われ」とある。国鉄仙台の文章の通り、軌道新設ではなく既存軌道の脆弱な輸送体制を補強する工事だったのだ。
 いずれにせよ、米軍の工事のみならず、古間木駅以南の国鉄の輸送パンクもあり、1946(昭和21)年に日本砂鉄鋼業の砂鉄輸送も不可能な状態に追い込まれたのはほぼ確実だろう。
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 ところで、文献によって距離がバラバラなので一度整理する。
 「日本砂鐵鋼業四十年史」では「約3キロの専用線」、
 「日本国有鉄道百年史 第11巻」では「古間木ー現・三沢ー・五川目間約5㌖」、
 「ものがたり東北本線史」では「5.6㌖の通称五川目線」

 と、距離は3km〜5.6kmで隔たりはあるが、国鉄側(本部と仙台駐在理事室)の数値が5km台で、日本砂鉄鋼業側が3kmとある点に着目した。
 正確な距離は不明だが、キョリ測で測定すると、上図の通り古間木(現三沢)駅から五川目集落南端の「仮称五川目駅」までの距離は約8,600mとなり、国鉄仙台と日本砂鉄の合計値にほぼ同じ値になる。
 そして、海軍航空基地〜五川目集落南端の距離が約5.6kmとなる。これは国鉄仙台駐在理事室の「5.6㌖の通称五川目線」とも合致する。
 以上より私は、古間木から伸びてきて海軍航空基地まで繋がっていた初期開通部から分岐した延長線―すなわち海軍航空基地〜五川目間が「5.6㌖の通称五川目線」というものではないかと見る。
 古間木から五川目までの全線約8.6kmのうち、具体的な区間の内訳は不明だが、新規敷設区間と改修区間を含め約5km分は戦時特例で鉱山専用側線として国鉄委託、残3kmは鉱山事業者の日本砂鉄鋼業が着手、という形で建設されたのではないだろうかと推測する。
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 さて、文献調査の結果についての記述が長くなったが、五川目堤から流れ出る川の橋の上から三沢方と上流側を望む写真だ。淡水魚の人気釣り場として知られる五川目堤から流れてくる川だ。五川目の名の由来になった、百石の一川目から数えて五本目の川ということになる(もっとも、もう少し川や水路の本数があるのだが)。
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 で、下流側を見ると、謎の廃橋。
 さすがに薄っぺらすぎるので、1067mmの在来線レール幅の砂鉄を積んだ重たい貨車が耐えられる設計だとは思えないが一応見ておく。
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 廃橋を渡ってみることにした。巻き尺を持っていなかったのが惜しまれるが、全長は4m以下、幅員は推定1.8m程度だろうか。
 まさかだけど、日本砂鉄鋼業が着手していた北方各鉱区に沿う延長12キロの軽便軌道の橋梁とかじゃないよね?
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 あまり根拠のない憶測では文章を書きたくはないが、当ブログで2019年8月22日に公開した下風呂散歩の記事で紹介した大間線の新湯川に架かる橋梁よりは華奢だが、雰囲気は似ているような気がする。大間線の方は正真正銘の国鉄の1067mmレールが引かれる予定だった普通鉄道だが、日本砂鉄鋼業が建設しようとしていた軽便軌道だとしたら、戦時中の資材不足の背景からして華奢な橋梁でもありえるのだろうか?
 集落の車道の旧道だとするにも、自動車が通るには狭い。いずれにせよこの橋梁の正体がわからない。
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 で、そんな正体不明の橋梁を渡った先は3.11で津波が越えて行った低地。東日本大震災の前にも青森県太平洋側では1mを超える津波が複数回あり、三沢ではなく八戸の値ではあるが1952年3月4日の十勝沖地震で3.1m、1960年5月24日のチリ地震で3.2m、1968年5月16日の通称十勝沖地震(三陸沖北部地震)で1.6mという津波が来ていた。
 それらの津波がなければ、五川目にもう少し鉄道や軽便軌道の跡は残っていたのかもしれないと思うと惜しい。
 というのも、日本砂鉄鋼業八戸工場を金銭譲渡で受け継いだ日本高周波鋼業(今の高周波鋳造)だが、1951(昭和26)年4月28日のデーリー東北記事「日本高周波鋼業会社の進出」に「日本砂鉄八戸工場を譲りうけ精錬を再開することになつたが、砂鉄鉱は上北郡淋代海岸から採掘、八戸工場に貨車輸送する」との運営見込みが記されているのだ。
 八戸工場も戦災を免れたし、三沢の五川目の鉄道・軌道も出来たばかりで利用価値も十分ある、と日本高周波鋼業も感じていたのだろう。もっとも、駅のある古間木と沿岸の集落を結ぶ道が米軍三沢基地によって分断され廃止に追いやられたのと同じように、淋代砂鉄専用側線も三沢基地に分断され復活できなかったのであるが。
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 最後、もう一度"駅のようなもの"─"仮に五川目駅跡"を見ておく。この平場、線路が2本敷けそうな雰囲気ではある。航空写真を見る限り、線路は繋がっていないようにも見えた現場がここだ。
 正面の縦列の松の左側に日本砂鉄鋼業の砂鉄積み出し用のレール、右側の広い方に国鉄委託建設の鉱山専用側線である五川目線こと淋代砂鉄専用側線のレールがあったのではないだろうか。
 私の資料の捜索力も足りず、なかなか通称五川目線の詳細にたどり着く資料を発見できず、推測だが古間木(三沢)から国鉄の線路が伸びて来たのは五川目集落南端のこの写真の付近までではないだろうか。
 海岸林内の弧を描く築堤跡も国鉄が委託を受け構築した可能性が高いと思うが、敷かれていたレールはもしかすると日本砂鉄鋼業の社史にある「軽便軌道」だったのではないか、そう思うのである。
 正確に測定したわけではないが、海岸林内の築堤のカーブは国土地理院の地形図で見る限りにおいても曲線半径は明らかに100mを割っており、下手すりゃ曲線半径50mぐらいかと思うのだが、こんな急カーブが国鉄の1067mm軌間で他にあったのだろうか?
 陸軍鉄道部隊が訓練を兼ねて建設した千葉県の新京成線(当初600mm→1067mm→現在1435mm)ですら京成津田沼〜新津田沼間の約120mという数値であるし、路面電車みたいなのも入れれば江ノ電の龍口寺交差点の28mとかの数値もあるが、五川目の急すぎる築堤カーブも、国鉄より日本砂鉄鋼業の軽便軌道の線路なのかなあと思う次第なのである。

終わり



通称「国鉄五川目線」関連歴史年表
1891(明治24)日本鉄道上野駅−青森駅開通。尻内駅(現八戸駅)、沼崎駅(現上北町駅)、下田駅開業。
1894(明治27)古間木駅(現三沢駅)開業。
八戸支線尻内駅−八ノ戸駅(現本八戸駅)−湊駅開通。
1906(明治39)日本鉄道が国有化され、上野駅−青森駅が国鉄東北本線に。
1934(昭和9)兵庫県神戸市で日本砂鉄工業設立。
1937(昭和12)日東化学工業八戸工場稼働開始。日東化学工業専用引込線湊駅−日東化学工業八戸工場開通。
日本砂鉄工業が海軍省指定工場に。
1940(昭和15)日本砂鉄工業が日本砂鉄鋼業に社名変更。
日本砂鉄鋼業八戸工場稼働開始。日東化学工業専用線から分岐する日本砂鉄鋼業専用線開通。
沼崎駅および下田駅から東北本線と八戸支線経由で砂鉄輸送開始。
1941(昭和16)海軍三沢航空基地建設開始。古間木駅の側線である通称五川目線は、通称三沢本線および海軍専用線古間木駅−海軍三沢航空基地の区間で開通。
1943(昭和18)日本砂鉄鋼業が古間木駅と五川目(三沢鉱区)を結ぶ専用線および、五川目以北の鉱区に連なる軽便軌道工事に着手。
1944(昭和19)日本砂鉄鋼業が軍需会社指定を受ける。
鉱山専用側線「淋代砂鉄専用側線」に指定され、古間木−五川目間国鉄委託工事着手。日本砂鉄鋼業が同線古間木−五川目使用開始。
1945(昭和20)八戸空襲により日本砂鉄鋼業八戸工場従業員が避難、工場機能一時停止。
1946(昭和21)海軍三沢航空基地を接収した米軍が三沢基地建設開始。淋代砂鉄専用側線で米軍基地建設資材輸送が開始。輸送力不足で古間木を中心に線路容量パンクに陥る。日本砂鉄鋼業が運行停止。
1948(昭和23)米軍三沢基地完成で古間木(三沢)方面と五川目方面の線路が分断。古間木駅−米軍基地間で燃料等の米軍関連物資輸送を開始。
1949(昭和24)GHQのドッジ旋風。日本砂鉄鋼業八戸工場操業停止。
1951(昭和26)日本高周波鋼業が金銭譲受で日本砂鉄鋼業八戸工場を同社八戸工場に。三沢鉱区からの砂鉄貨車輸送を模索(五川目からの輸送は実現せず)。
1959(昭和34)国鉄沼崎駅が上北町駅に改称。
1961(昭和36)国鉄古間木駅が三沢駅に改称。
1971(昭和46)国鉄八戸線八戸駅が本八戸駅に改称、東北本線尻内駅が八戸駅に改称。
1978(昭和53)日本砂鉄鋼業が合同製鐵に合併され消滅。
1981(昭和56)日本高周波鋼業が高周波鋳造を分離し、日本高周波鋼業八戸工場が高周波鋳造(本社八戸市)に。
1985(昭和60)八戸支線本八戸駅−湊駅間廃止(高架橋は現存)。
1987(昭和62)国鉄分割民営化で八戸・三沢地区の旅客輸送はJR東日本、貨物輸送はJR貨物に。
2004(平成16)五川目地区の集団移転事業が開始。
2006(平成18)米軍が石油燃料輸送を終了、三沢駅側線(米軍三沢基地専用線)廃止。
2010(平成22)五川目地区の集団移転事業が終了。

◆引用文献・参考文献

今尾恵介(2008)「日本鉄道旅行地図帳 2号 東北―全線・全駅・全廃線 (2)」
佐々木好雄(1991)「三沢駅沿革史 昭和戦前編」
佐々木好雄(1991)「三沢駅沿革史 昭和戦後編(二〇年代)」
テイクオフみさわ(2014)「ミサワの昭和」
中園裕(2016)「青森県の交通史」
楢崎政志(1981)「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 三沢」
日本国有鉄道(1973)「日本国有鉄道百年史 第11巻」
日本国有鉄道仙台駐在理事室(1971)「ものがたり東北本線史」
日本国有鉄道盛岡鉄道管理局(1966)「盛岡鉄道管理局15年史」
日本砂鐵鋼業(1975)「日本砂鐵鋼業四十年史」
長谷川典雄(1965)「八戸工業地区の形成過程」
八戸市史編纂委員会編(2005)「新編八戸市史 近現代資料編掘
八戸市史編纂委員会編(2005)「新編八戸市史 近現代資料編検
八戸市史編纂委員会編(2005)「新編八戸市史 通史編」
八戸臨海鉄道(2011)「八戸臨海鉄道40年史」
三沢郷土史研究会(2018)「郷土史三沢第14号」
三沢市教育委員会(1964)「三沢市史(上)」
三沢市教育委員会(1965)「三沢市史(中)」
三沢市教育委員会(1967)「三沢市史(下)」
三沢市教育委員会(1988)「三沢市史(通史)」
三沢市教育委員会(2012)「東日本大震災 三沢市の記憶」
三沢市史編さん委員会(2008)「三沢市史(続通史)」


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