「淋代砂鉄専用側線(国鉄五川目線)跡を歩く」の記事をみる(クリック)→ (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 最終回
DSC_6497 淋代砂鉄専用側線(国鉄五川目線)跡を歩く 最終回にて掲載した、最終到達点付近の様子。
 最終回では「海岸林内の弧を描く築堤跡も国鉄が委託を受け構築した可能性が高いと思うが、敷かれていたレールはもしかすると日本砂鉄鋼業の社史にある「軽便軌道」だったのではないか」と推測したわけだが、軽便軌道跡はないものかと3月上旬に“軽く”追加調査を実施した。
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 五川目の道路をあのまま北上すると90度に屈曲する地点があり、いかにも「軽便軌道跡」という道筋が海岸林内に続いている。国土地理院の過去の航空写真で見ても、軌道跡とみて間違いなさそうだ。戦後まもなく米軍に撮影された写真をみると、六川目方面まで海岸林が切り開かれて道が作られたように見えるが、実際どこまで日本砂鉄鋼業は軽便軌道建設を行っていたのだろう。
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 “軽く”追加調査なので、ズルしちゃう。林内の軌道跡は歩くのをやめ、舗装道路を迂回し五川目三丁目から北隣の淋代一丁目に入る。五川目は集団移転で家の一軒も残っていないが、淋代は今も集落が残っている。五川目と淋代の境目の林道を海へと折れ、軽便軌道跡にワープしよう。
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 いかにも軽便軌道跡だとわかるような痕跡が残るところで、軽トラで犬の散歩中の高齢の男性とすれ違う。軽便軌道跡のことを調べていると丁重にお伝えすると「軽便鉄道?トロッコか?ああ、トロ線ならここだ。」という。
 聞くと男性は淋代の生まれで「誕生日が来れば70歳」だという。子供のころにはすでにレールは剥がされた後だが、バラスト(砕石)ではなく木のチップが敷かれていてトロッコ線を歩いたり遊んだことがあるという。男性の年齢からすると、1950年前後生まれで、子供の頃の記憶とすれば1955〜1960年頃の時点で軽便軌道のレールは残っていなかったということになる。
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 男性によれば、トロ線は五川目からこの先の用水路までだという。
 日本砂鉄鋼業が五川目以北の鉱区に連なる軽便軌道工事に着手したのが1943年で、空襲により八戸工場での砂鉄精錬が不能に陥ったのが1945年。米軍基地建設で淋代砂鉄専用側線が使用不能(=通称・五川目線の廃止)となったのが1946年で、日本高周波鋼業が金銭譲受で日本砂鉄鋼業八戸工場を得て操業したのが1951年。男性の証言通り1955〜1960年頃にはレールがなかったとなれば、戦前に日本砂鉄鋼業が着手し、戦後になって日本高周波鋼業に引き継がれた軽便軌道の実働年数というのは本当にわずかな期間なのだろう。
 男性と別れ、淋代一丁目の北端の用水路沿いの林道を海に向かうも軽便軌道の痕跡は薄い。
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 これが淋代一丁目と三丁目の境目の用水路だ。軽便軌道跡もここまでだというのか。幅1m程度の水路だが、橋梁の跡は見つけられなかった。それどころか、林内の軽便軌道跡すらわからなくなってきている。
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 海岸林と砂浜の境目から北側を望む。この先にも軽便軌道跡があるのなら、なんとなくこの隙間はそれらしい雰囲気があるが、位置的にはもっと内陸寄りだろう。
 実は現地に来る前に、Googleストリートビューで軽便軌道の橋梁跡かと思わせる場所を発見しており、そこまでは行ってみようと考えたのだ。

 これがその橋梁跡かと思わせたストリートビューの画像だ。ちょうどこの先が未舗装となるためストリートビューが終わっており、これは見届けておこう。こちらに軽便軌道跡のヒントがあるかもしれない。
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 上のストリートビュー終点と同じ場所、すなわり淋代三丁目と五丁目を抜けて淋代の北端まで来た。次の集落の細谷までは海岸林と原野―淋代平が広がっている。もしもストリートビューに見えたコンクリート構造物が軽便軌道跡だとするなら、五川目の謎の廃橋の兄弟ともいうべき廃橋があるはずだ。
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 横から見ると廃橋っぽかったが、ただの堰だった。。。
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 淋代の幹線排水路は結構な幅があり、軽便軌道もこれを超えたかは怪しい。日本砂鉄鋼業の社史にも軽便軌道の詳細は乏しく、合併後の合同製鐵にもわかる人は残っていないだろう。五川目以北の軽便軌道がどこまで伸びていたかは、淋代地区を中心に当時の記憶がある高齢者への聞き取りをさらに行うか、ほかの資料を探すほかない。
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 何か手掛かりはないかと、ミス・ビードル号記念広場に立ち寄る。津波避難タワーを兼ねた展望施設から、三沢の象徴の一つともいえるミス・ビードル号を模した赤い飛行機のオブジェを見下ろす。
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 五川目方面を見通すが、肉眼では軽便軌道跡はまるでわからなかった。やはり高齢男性のいうとおり、レールが敷かれていた軌道跡も淋代一丁目の北端の水路までだったのか。
 戦後直後に米軍に撮影された航空写真に見える、六川目方面まで続く謎の海岸の「線」や、「日本砂鐵鋼業四十年史」にある「北方各鉱区に沿う延長12キロの軽便軌道」という記述を読むと、何らかの痕跡はあってほしいと思うのだが、ろくに下調べもしないでいきなり来ても簡単にはいかないか。
 遠くに、灯り始めた八戸の夜景と階上岳を見て、三沢を後にした。

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