中里(現北津軽郡中泊町)の十三湖の近くに、昭和40年頃に干拓された割と大きな湖沼があったらしい。
 面積はつがる市の田光沼より広かったといい、もしも現存したなら、津軽平野に点在する天然湖沼や溜池の中でもかなり大きい方になる。

 その湖沼の名称は内潟沼
 沼を略して内潟と呼ぶ場合もあったようで、昭和の大合併前にはその湖沼名に由来した内潟村(中里町を経て、現在の中泊町の一部)も存在した。

 「〇〇潟」の代表例と言えば、かつて日本第二の面積を誇った秋田県の八郎潟や、石川県の河北潟などが知られるが、内潟もまた干拓されてしまったという共通点をもつ。
 一方で八郎潟や河北潟は一部が干拓・埋め立てを免れて水域が残っているが、内潟は通過する河川の水路を除いて水域が残らず陸地化し、現在の地図上に現れることはないため青森県民の多くにも存在を知られていないと思われる。

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 戦後間もない時期に米軍によって撮影された空中写真を基に、現在の空中写真と照合すると、おおよそ上図のような位置に内潟沼は存在したことになる。
 羽を広げたチョウのような形をしており、東西南北とも、もっとも幅があるところは1kmをゆうに超えていたようだ。

 今すぐにでも現地に行ってみたいと思ったものの、新型コロナウイルスの影響で不要不急の外出自粛が叫ばれていた時期でもあり、まずは在りし日の内潟沼の全容を掴むべく、ネットで検索するもなかなか情報がなく、事前調査の多くは図書館にて過去の書物から調べ上げることとなった。

【内潟沼の面積・水深】

 文献調査をしたところ、中里町(1965)「中里町史」に面積、愎劫况(1950)「愎劫竸綮沙餮残敢妻鷙霏莪跚法廚某綽爾竜載を見つけた。
 両誌によれば、内潟沼の面積は1.365㎢で、水深は1mだったという。
 と言われてもピンとこないであろうから、下表のとおり青森県内の主要な湖沼と比較してみる。

内潟沼と青森県の主要湖沼との比較
湖沼名面積(㎢)水深(m)
小川原湖61.9825
十和田湖61.10326.8
十三湖17.813
鷹架沼5.436.2
尾駮沼3.324.5
廻堰大溜池2.817
宇曽利山湖2.6823.5
市柳沼1.754.0
田面木沼1.617.0
姉沼1.574.3
内潟沼1.3651
田光沼1.253
平滝沼0.423

 ワカサギ釣りで知られる東北町と三沢市の境目にある姉沼よりは狭いが、やはり田光沼や平滝沼より広い沼だったことが数値から窺がえる。
 現存していれば、津軽地方では十三湖、廻堰大溜池(ただし人造)の次に大きな湖沼だったのだ。

 面積が1㎢を超える湖沼は国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調にて公表される対象となり、青森県には1㎢を超える面積の湖沼が多数あるので珍しくもなく感じるが、岩手や山形など26都府県には面積1㎢を超える湖沼は存在しないのである。
 全国でいえば北海道大樹町の生花苗沼(1.54㎢)、釧路町の達古武湖(1.31㎢)、豊富町と幌延町に跨るペンケ沼(1.27㎢)、宮城県石巻市の長面浦(1.43㎢)、亘理町の鳥の海(1.29㎢)などが似た面積で、特に新潟市の鳥屋野潟は1.37㎢でほぼ同面積というころになる。
 首都圏でいえば、富士五湖の一つである精進湖の倍以上の面積はある。
 内潟沼の干拓は、これらの湖沼が干拓で陸地化したとイメージしていただければと思う。


【内潟沼の生物と人との関わり】

 内潟沼開田記念碑には「四方芦がやが低く囲み、遠く岩木山の屹立する中に二つ三つ棹さして行く小舟の静かに浮んだ内潟沼」との記載があり、芦萱に囲まれた静かな沼沢地の風景が想像される。

 水深は1m程度であったというので、大人なら内潟沼の底に足をつけることが出来たのだろう。
 十三湖同様に海水が遡上する汽水湖だったため海産と淡水産の魚介類が混生していたとされ、主要な魚種の漁獲状況は、前出の愎劫况(1950)「愎劫竸綮沙餮残敢妻鷙霏莪跚法廚砲茲襪醗焚爾猟未蠅任△襦

内潟沼の漁業の概要
魚種年漁獲推定(貫)漁期漁法
コイ500〜70010月地曳網
ナマズ700〜1,0008月地曳網
ボラ30010月地曳網
フナ300〜4006月〜8月地曳網
チカ(三寸位)1004月地曳網
カジカ(一寸内外)200〜3007月地曳網
シジミ50010月

 上表の魚種のほか、「サケ、マス、イワナ、ウグヒ、カレヒ、ヤツメ、アユ、ドジョウ等が棲息しエビ、ヌマガイ、タニシ、カワガニ等も棲息」していたという。

 漁法として表には地曳網のみの記述だが、本文中には「地曳網延縄刺網釣等」とあるので、様々な漁法が採られていたようだ。
 小川原湖や廻堰大溜池では延縄(はえなわ)でナマズを漁獲していたという話を聞いたことがあり、内潟沼も同様の方法でナマズが漁獲されていたかもしれない。
 そしてカジカ(一寸内外)というのが個人的に非常に気になる。海のカジカや渓流のカジカではなくカンキョウカジカのような気がするが、年に300貫も獲れていたのか。1貫が3.75kgだから、300貫だと1トンを超えてくる。今は地域によっては絶滅危惧種だったような……

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【十三湖岸の風景(2007年12月撮影)】

 ところで、内潟沼は「シジミは大量に棲息しているらしいが余り採取してゐない」とあり、意外であった。
 昭和25年に刊行された「愎劫竸綮沙餮残敢妻鷙霏莪跚法廚覇盂秕造里曚十三湖を調査報告したのは函館水産専門学校(現在の北海道大学水産学部)だが、同時期の十三湖ではジョレンを用いて年間50,000貫(≒187.5トン)のシジミ漁獲があったとしている。
 昭和20〜25年ころの当時すでにシジミは「十三湖の名産品」と認知されていたようだが、「数年前までは地方の人が自家用に採取した程度であつたが近年から他地方え販賣し又はツクダニ用原料として利用し出した程度である」ともある。

 内潟沼の干拓が取り沙汰された頃は、シジミが資源的にも安定し換金価値も高い水産物として、まだ認知されていなかったということかもしれない。

 他の魚種も含めての話だが、当時の内潟沼では「自然産の魚類を部落民が勝手に採捕しているだけで何等の繁殖方を講じてゐない」という記述もあり、内潟沼沿岸の人にとってシジミは青森や弘前、五所川原まで売りに行って儲けるために獲るというより、“晩ゲのおつゆの具”として採りに行くくらいだったのだろう。
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【津軽の晩ゲのおつゆの具といえば十三湖のシジミ貝】

 内潟沼を漁業以外の産業でみてみると、中里町企画調整課(1996)「十三湖干拓思い出の記録」の49ページには東奥日報社提供の「干拓地域内の芦萱刈取風景」という昭和29年の白黒写真が掲載されており、「芦萱販売が唯一の現金収入であった」との記述がある。
 芦萱はかやぶき屋根や簾の原料として換金価値があったのだろうが、現金獲得手段に乏しい状況にある中で、間もなく換金価値が高まって行くシジミが注目されていなかったというのが惜しい。

 逆説的に言えば、内潟沼でも十三湖同様にシジミ漁に従事する人々が増え、収入的にも基盤に乗る状況にあったなら、内潟沼干拓事業は漁業補償で国と漁業者が相当に揉め、今も内潟沼は残っていたかもしれない。


【内潟沼の干陸過程】

 岩木川下流の十三湖周辺はほぼ標高ゼロメートルな低湿地が広がっていて、水田自体は江戸時代から一部に点在していたようだが、昭和に入ってなお「腰切田」(腰まで泥水に漬かる)とか「乳切田」(乳房まで泥水に漬かる)と呼ばれる排水不良田が広がっていたとされる。

 こうした劣悪な水田環境を改善し、食糧増産を図るべく1948(昭和23)年に十三湖干拓建設事務所が発足して十三湖干拓事業は進展するが、内潟沼工区の干陸計画が承認されたのは1964(昭和39)年9月30日である。

 この経緯から普通に考えれば、内潟沼は1964(昭和39)年9月30日以降に干陸化した、と捉えることができる。
 内潟沼についてネット上にて詳しく記載されている陸奥新報の2019年4月1日付沼から命名の「内潟」=110においても、「内潟沼は65(昭和40)年前後に姿を消し、見渡す限りの水田へと生まれ変わった」とあり、1965(昭和40)年前後に干陸化して内潟沼は消滅したというのは事実であろう。


 しかし、1964(昭和39)年まで内潟沼が元の姿で健在であったのかというと、話は変わってくる。
 
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 1953(昭和28)年の時点では内潟沼はほぼ元の姿のままである(写真左)。
 しかし、内潟沼工区の干陸計画が承認される前1962(昭和37)年の時点で内潟沼は東西に分断され、すでに一部は干陸化しているのが見て取れる。

 というのは、1960(昭和35)年にサンドポンプ船を内潟沼に曳航し、翌年からは内潟沼中央部を南北に貫く導流堤(導水路)の工事が始まっているのだ。
 導流堤に並行して、両岸に排水路も引かれ、左岸(西側)の4号排水機場と右岸(東側)の8号排水機場が1961(昭和36)年に完成し、内潟沼は東西に分断され水が抜かれ始めてしまっているのだ。

 1960(昭和35)年頃には、すでに内潟沼の干陸化が進んでいたのだ。

 さて、サンドポンプ船で内潟沼に導流堤を造った際の東北農政局関係者の逸話として、水底から汲み上げた「ヘドロ状で泥堆積した土砂は、一度雨が降ると表面は数cmもあるシジミ貝の殻で真っ白に覆われ驚」いたという一節が、中里町企画調整課(1996)「十三湖干拓思い出の記録」にある。
 
 やはり内潟沼はシジミの宝庫だったのだろう。

 どうしても、内潟沼を完全に干陸化させたのはもったいなかった気がする。
 内潟沼が現存していれば、県内では小川原湖と十三湖に次ぐシジミの名産地に成長していたであろう。
 岩木川下流域の排水不良田を克服するために必要な事業であったのは理解するが、1969(昭和44)年には減反政策に舵を切ることになることを思えば、水域の一部で良いから内潟沼を残せなかったのかと思うのである。

【内潟沼の面影を探しに】

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 新型コロナウイルスの非常事態宣言が解除され、蟹田から山越えで中里へ。
 もはや干陸化が完了した内潟沼の痕跡をたどるのは困難だと思われるが、何か所かはみておきたい。
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 今泉からこめ米ロードを南下すると内潟農道の表記をみつける。旧内潟村の内潟で、内潟沼を行く農道ではないというのは位置的にわかるが、わずかながら内潟を後世に伝えそうな農道名がとても良い。


★旧流出口

 現在の県立中里高校などがある高根小金石集落付近に、内潟沼の流出口があったようだ。
 十三湖干拓事業では4号承水路として整備された水路だが、古くは内潟沼から十三湖へと流出していた鳥谷川の旧流路をなぞるような位置関係と思われる。

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下流(十三湖側)
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上流(内潟沼側)
 下流側は承水路が整備され、いにしえの鳥谷川の風景を何となく感じることはできる。
 一方の上流の内潟沼の方だが、中里観光のバス車庫や県立中里高校の敷地に転用されており、ほとんど痕跡を見つけることはできないと思われる。

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中里観光と中里高校
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小金石集落
 広域農道・こめ米ロードの東側、中里高校などの敷地の一部をかつての汀線が縦断しており、ここは元は内潟沼の水域であったはずだが、やはり痕跡はみつけられない。
 ただ、この小金石集落は内潟沼の流出口にあった集落であることに間違いはない。


★内潟沼開田記念碑と導水路

 続いては小金石集落を西進し、内潟沼の干陸化を促進した排水機場のあった地点を見に行く。

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 内潟沼を東西に分断した内潟沼導水路を跨ぐ県道189号の鳥谷川橋の左岸上流側の袂に石碑「内潟沼開田記念碑」が静かに佇む。
 ここは内潟沼の水域でも湖畔(汀線)でもなかった所だが、内潟沼の西側を干陸化させた4号排水機場の至近である。
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 幼いころ散歩中に石碑の類を見つける度に「お墓だ」と言っては亡き祖母から「墓でねぇ」と訂正されていた記憶があるが、内潟沼開田記念碑はある意味、内潟沼の墓碑のようにも感じる。

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石碑は路盤より低い
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鳥谷川上流側

 若宮水利事業記念碑も隣に立ち、共に十三湖干拓事業を後世に伝える石碑となっているが、車道からは低い位置にあり見えにくく、ガードレールを跨がなければ接近することもできない。
 鳥谷川の一部となっている導水路だが、川幅は広く迫力がある。

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8号排水機場跡
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ミニ内潟沼

 対岸の8号排水機場跡にも足を延ばしてみる。
 こちらには内潟沼の形を模したビオトープの池がある。強雨で水が濁っているせいか、生き物は見えなかったが、内潟沼と同じ蝶のような形にビオトープを造り、地元の小学生の学習の場になっているというのは良いことだ。

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 平成4年に旧高根橋から架け替えられた県道189号鳥谷川橋もまた良い味を出している。

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左岸下流
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右岸下流
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左岸上流
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右岸上流

 県道189号鳥谷川橋はそれぞれ4か所の袂に魚介類のモニュメントを配しており下流側は左岸がモクズガニで右岸がゲンゴロウブナ、上流側は左岸がイワトコナマズで右岸がヤツメウナギになっている。
 「愎劫竸綮沙餮残敢妻鷙霏莪跚法廚砲眛盂秕造棒限する生物として記載があったカワガニ、フナ、ナマズ、ヤツメの類か。しかし、ゲンゴロウブナもイワトコナマズも琵琶湖とか淀川水系にしかいないんじゃないのか?

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 排水事業で分断された内潟沼の西側の水域があった方面は、見渡す限りの広大な水田で、内潟沼の痕跡などなさそうだった。
 遠くに見える低い山は鰺ヶ沢から車力まで連なる屏風山の北端に近い方である。


★鳥谷川・宮野沢川・尾別川の流入部

 内潟沼に流入していた川は西から順に鳥谷川、宮野沢川、尾別川の主な3本だ(他にも、高根集落方面から流入する小さな沢などは複数あったようだ)。
 内潟沼を蝶にたとえて言うならば、鳥谷川は左の羽の下の方から流入し、宮野沢川と尾別川は蝶の腹部末端(お尻)のあたりに流入していた。

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3河川合流部
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宮野沢川

 干拓事業で流路は整理されたが、3本の河川の合流部には内潟沼の雰囲気は残っているだろうか……
 合流部の一部水に漬かっていない所は、シジミがいないか掘ってみたくなる雰囲気は出ている。

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 ここは場所を移して、こめ米ロードの尾別川の橋を渡った北側。内潟沼が残っていたなら、まっすぐ伸びるこめ米ロードはこの先の中里高校の辺りまで内潟沼の汀線の内側──すなわち水の中である。
 今回、最も注目していたのはこの写真の左側の尾別川の下流部の水田である。

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三角形の休耕田
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奥の土手は尾別川

 十三湖干拓事業や、その後の国営津軽北部土地改良事業を経て、内潟沼の跡地には整然と区画された水田が広がっているのだが、尾別川が宮野沢川に合流する地点の東側に、三角形の水田が何枚かあるのだ。
 冒頭に載せた、編集空中写真でも、蝶の右の羽の下の方の内潟沼の汀線に一致する位置に斜めの水田があるが、ここは干拓前の水田と同じ斜めの区画が残っているように見える。
 写真左で、左に伸びていく直線が三角形の斜辺にあたり、内潟沼があった当時の汀線(湖岸)が視覚的にわかりやすい唯一の地点かもしれない。

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農林省
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境界標
 三角形の水田の区画を見ていると、農林省の境界標があった。農林省から農林水産省に名称変更があったのが1978(昭和53)年なので、少なくともそれよりは前からの境界標だが、昭和20〜40年代の十三湖干拓事業と関連があるかは確証が持てない。
 それにしても、怪しい。やはりここが内潟沼の汀線なのだろうという気はする。


★内潟村中心部(薄市)と、中里中心部の寿司屋での聞き取り

 旧内潟村の中心部は今の薄市地区にあったといい、国道339号の旧道を走ると今も営業している商店が複数あるなど、賑やかさが感じられる。

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旧内泻農協跡地
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内潟公民館
 
 陸奥新報「沼から命名の「内潟」=110
の記事では、「内潟」を冠した施設の貴重な写真が何枚か掲載されているが、その中で「内泻」表記があって注目していたのが旧内潟農協の建物なのだが、JAつがるにしきた内潟支店はなんと閉鎖・解体済みであった。ショック。
 ただ、内潟公民館や内潟郵便局、内潟駐在所などは健在であった。

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 薄市を散策したが食事をするところは見つからなかったので、中里中心部に移動。むかし知人と入ったことがあるチャンコ食堂が無くなっており(後で知ったが、火事を出して旧店舗を閉めて津軽中里の駅ナカに移転したらしい)、初めてやよい寿司に入店する。
 大将と女将と常連客の高齢男性(爺様)がディープな津軽弁で会話しており、爺様が途中でむせてせき込んでおり、「つがるどさはった」が「津軽道さ入った」に聞こえて笑いそうになる。「つがるどさはった」は、「違うところに入った=気管に入った」という意味である。

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 シャリの寿司酢が強めの寿司セット(800円)。
 大将と女将と爺様の会話に聞き耳を立てると、イワナ釣りとか水田に入れる水の話から、魚の会話をしている。その中で標準語訳すれば「ヤツメウナギも昔食ったもんだ」「ヤツメウナギは臭くてまずい」「いや、味噌とニンニクで煮込むと美味い」などとヤツメウナギ談議が始まった。

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 こんなチャンスはあるまい。会計を済ませたところで内潟沼の話をしてみると、「内潟沼?潟が!?潟なあ!」と大将は内潟沼を「潟(ガタ)」と語りだしてくれた。
 やはり、内潟沼にはシジミは大量にいた、と大将。
 ヤマセが吹くと潟の水が西の方に引くので、ズボンを捲くって潟に入り、歩くと足の裏にシジミ貝が当たるのが分かるので、それを手ですくって獲れるほど居たという。女将が子供の頃には実家にジョレンがあったといい、ジョレンならひと搔きでシジミが溢れるほど入ったという。
 内潟沼には漁業権はなかったといい、干拓前は中里からも時々シジミを獲りに行ったのだという。
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 私も小川原湖や十三湖でシジミ採りをやったことがあり(密漁じゃないよ)、確かに足の裏の感触でシジミが居ることを察知することはできるのだが、素手で掬えるほど大量にはいない。
 初夏は中里も山菜のミズの旬を迎えているわけだが、ミズを採ってきたらシジミも獲ってきて、ミズとシジミをバター炒めにすると絶品だと大将も女将も声を揃えた。
 爺様は「中里のミズがいちばん美味い。岩木山のより美味い。小泊のは中里より美味くない。地域によって味が違う。ミズは中里の名物だ」とまで言った。

 中里は海がなかったが、小泊と合併して中泊になって「中泊メバル膳」を売り出していて、小泊はともかく中里でそれを見かけても違和感がある。
 内潟沼は無くなったが、十三湖のシジミなら中里にもあるのだから、ミズとシジミで売り出すのも面白いだろうになあ。
 ま、ミズは嫌いとか言い出すかもしれないからメバルで良かったのかもな。

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 内潟沼が干陸化したのが1965(昭和40)年となれば、当時10歳の子供でも今年2020(令和2)年には65歳。当時ハタチの成人でも75歳になっているわけで、内潟沼をハッキリと覚えている人がまだまだ健在なうちに聞き取りができて良かったと思う。


【最後に。ソイルマークは見えるか?】

 区画整理された水田地帯でも、より古い時代の蛇行する河川跡がソイルマークとして浮かび上がって空中写真によって見られるケースがあり、内潟沼もGoogle MAPやYahoo!地図、国土地理院の空中写真等で検索してみた。

 導水路の東側と西側で稲の作付時期や刈取時期が違っていたりするものも多く、稲の生育状況が均一に近い状態というのがなかなか見つからず、Google Earth Proで2015年9月23日に撮影された下記の写真をようやくみつけた。
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 旧内潟沼の周辺もふくめ、ほぼ稲の生育状況が均一で青々とした写真をようやく見つけたのだが、ソイルマークは見えなかった。
 まあ、平安時代初期くらいまでは十三湖の範囲はかなり広く、干拓直前の内潟の周辺の陸地もほとんど水浸しみたいな低湿地だったのだろうから、ソイルマークとしては出てこないのかもしれない。
 
 それっぽく見えないこともない写真もあるのだが、明瞭に内潟沼の痕跡が浮かび上がるような空中写真はないようだ。

 終わり。

 
 関連記事:色別標高図で見えた内潟沼

◆引用文献・参考文献・ウェブサイト

青森県(2016)「青森県六ヶ所村における湖沼の水質の長期変動 (2004 年~ 2015年)」
愎劫况(1950)「愎劫竸綮沙餮残敢妻鷙霏莪跚法
内潟村役場(1955)「内潟村史」
国土交通省(2020)「令和2年全国都道府県市区町村別面積調(1月1日時点)湖沼面積」
国土地理院 地図空中写真閲覧サービス
仙台農地事務局十三湖干拓建設事務所(1969)「直轄干拓十三湖干拓建設事業概要書」
竹内正一(1974)「十三湖干拓二十周年記念 竹田部落誌」
東北農政局十三湖干拓建設事業所(1969)「十三湖干拓工事誌」
中里町企画調整課(1996)「十三湖干拓思い出の記録」
中里町役場(1965)「中里町誌」
陸奥新報社(2019)「2019年4月1日付朝刊 沼から命名の「内潟」=110」




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