下北半島の道路交通の高速化はいくつかの段階があるので備忘録的に記載しておきたい。
 といっても盛岡藩時代の徒歩道まで遡ることはせず、自動車が一般庶民にも普及し始める戦後─1950年以降とする。

【国道2路線の普及過程】

 1954(昭和29)年の建設省告示第16号で、下北半島に八戸田名部線田名部大間線田名部川内線田名部野辺地線の4路線が主要地方道に指定される。

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 上図の通り、1954年の時点で、現在の国道279号に相当する区間はほぼ全線で主要地方道指定を受けている(ほぼ全線としたのは、函館市内の区間が未指定のため)。
 国道338号に相当するところでは、下田の苗振谷地からむつを経て川内まで指定されている。太平洋側の区間は八戸田名部線ということで起点は八戸になるが、八戸から下田までは二級国道102号弘前八戸線と重複している。
 田名部川内線が川内止まりとなっているのは、当時の川内町の実力もあるのだろう。川内は1920(大正9)年の第1回国勢調査で田名部や大畑を凌ぎ下北最大の人口を持つ自治体であった歴史があり、1950(昭和25)年の国勢調査でも人口9,391を数え、大間の7,217を上回っている。主要地方道を大間に通すなら川内にも、となるのだろう。

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 1959(昭和34)年の告示第390号にて下北にも主要地方道の路線指定が増える。
 大間川内線は大部分が現在の県道46号川内佐井線(通称かもしかライン)に相当するが、起点の大間から佐井までは現在は国道338号の一部である。
 佐井と川内の間は脇野沢を経由する佐井脇野沢川内線も指定を受け、こちらは後に全区間が国道338号に昇格を果たす区間であるが、この時点では佐井の牛滝と脇野沢の源藤城の間に車道は無い。
 路線の整理番号も大間川内線が46番であるのに対し、佐井脇野沢川内線は47番。大間川内線の方が若干ながら格上の路線であったのだろう。

 地図からは割愛したが、田名部恐山公園線もこの時に主要地方道指定を受けている。現在の県道4号むつ恐山公園大畑線の一部にあたる。その後も下北には主要地方道は登場するのだが、以下省略されて頂ければと思う。

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 1964(昭和39)年、日本初の外洋カーフェリーとされる東日本フェリーの大間−函館航路が就航する。
 また、指定済みの主要地方道の区間変更や名称変更もあり、八戸田名部線八戸むつ線田名部野辺地線むつ野辺地線田名部大間線むつ大間線と変わっている。
 時期不明ながら、佐井脇野沢川内線大間脇野沢川内線に変わっている。

 まだ下北に国道はないが、北海道と本州を結ぶ唯一のカーフェリーのルートということで、現在の国道279号に相当するむつ大間線むつ野辺地線を膨大な数のトラックが走行し、むつ大間線沿線は第59回国会参議院建設委員会閉会後第3号(昭和43年11月12日)での沢田政治の発言によれば「沿道住民は泥水と砂ぼこりに日夜苦しめられて」いる状態だったという。

 下北とは直接関係ないが、八戸田名部線の一部と重複していた八戸−下田間の国道102号は1963(昭和38)年に建設省直轄の国道45号に昇格している。

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 1970(昭和45)年に下北初の国道が誕生する。
 むつ大間線むつ野辺地線がそれぞれ国道279号に昇格を果たしたのである。
 1968(昭和43)年の十勝沖地震後の国会ではむつ大間線むつ野辺地線の名称が出てくるが、その後に野辺地むつ大間線という名称も出ており、路線統合があったのかもしれないが不明。

 国道279号の起点は函館市で終点は野辺地町となり、函館駅前からかつて東日本フェリーの埠頭があった函館市末広町までの短区間も国道279号となり、青森と北海道を結ぶ海上国道が初めて誕生したのである。
 ただ、北海道側は北海道開発庁による国直轄管理であるが、青森側は建設省直轄とはならず県管理として今日に至っている。
 
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 1975(昭和50)年に、主要地方道八戸むつ線国道338号に昇格を果たし、下北半島の太平洋沿岸に国道が誕生した。
 主要地方道時代は八戸が起点でむつが終点だったが、国道338号は逆にむつが起点となり、八戸には至らず下田が終点となっている。

 一方で川内や脇野沢、佐井にはまだ国道が通らない。脇野沢−佐井間の車道もまだ完成を見ていない状況であった。

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 1978(昭和53)年に脇野沢と佐井の間に車道が開通し、大間脇野沢川内線主要地方道指定から19年でようやく全通した。

 この時のニュース映像が青森放送の「あの瞬」に収録されており、YouTube公開されているので紹介する。

 開通したのは良いが、未舗装。
 今だったら新道は舗装して開通させるのが当たり前という感じもあるが、脇野沢と佐井の間は未舗装のまま平成時代を迎えることになる。

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 そして1982(昭和57)年。
 大間川内線の大間−佐井間と、佐井脇野沢川内線むつ川内線を繋ぎ合わせる形で、大間−脇野沢−むつが国道338号に昇格し、現在の下北の国道ネットワークの原型が出来上がる。

 国道338号は起点が当初のむつ市から函館市に変更され、函館−大間間は国道279号との重複区間となり、函館市と終点の下田町を結ぶ国道ということになった。
 細かいことを言うと、国道394号も1993年からは起点がむつ市とされたが、むつ−六ヶ所間はより番号の若い国道338号との重複区間で、六ヶ所の平沼から南の僅かな区間しか下北半島では単独区間が現れないため、今回は割愛した。

【一部改良の時代】

 国道が指定されてからは、管理主体の青森県が国の補助を受けながら漸次、整備・改良を進めていくことになる。
 1981(昭和56)年には国道279号横浜バイパス国道279号大間バイパス、1982(昭和57)年には国道338号泊バイパスが開通し、各地でバイパスの整備や現道の拡幅や線形改良が進み始める。
 
 1975(昭和50)年ごろの六ヶ所村泊の人口は6,000を超えており、当時の横浜町や大間町と同規模の大集落であった。現在は3,000人程度まで減少したが、それでも風間浦村や佐井村を凌ぐ規模である。泊はバイパスが必要な重要地だったのである。

 横浜、大間、泊などに続いて大畑や野辺地などにもバイパスを建設という流れになっていくが、下北に高速道路はまだ現れない。

 しかも下北の道路網が劇的に良くなったわけではなく、昭和最末期の1988(昭和63)年12月に開かれた県議会で、下北の道路整備について菊池健治議員は「現状の泊−白糠間は国道三百三十八号最大の難所と言われ、特に峠の中ほどの物見崎周辺は、乗用車での通行の際ですらハンドルを握る手に汗するほどの危険な急カーブの連続する道路であります。この道路に路線バスが運行され、春から秋にかけての行楽シーズンに観光客をいっぱい乗せた大型バスが運行している様子は、さながらスタントカーと言わざるを得ないのであります」と発言している(昭和63年第176回定例会(第3号)1988-12-08)。
 国道昇格=道路が良くなるではないのだ。

【定時性向上の時代】

 今ある道路の改良のみならず、「高速道路を下北に」という声は昭和時代からあり、実際に青森県も国に働きかけてきた事実がある。

 前述の菊池健治議員の質問への答弁に立った北村正哉県知事の答弁を引用する。

四全総との関連で、高規格道路のメッシュを──網を整備していく際の一つの課題として取り上げられた経過があるわけであります。つまり、本県においても四つの路線が新しく取り上げられた──久慈から八戸、それから八戸から青森、大館から碇ヶ関へ入ってくる、あるいは鰺ヶ沢から青森へ至る津軽高規格道路、こういったものが取り上げられたんでありますが、下北を一体どうしてくれるんだということで地方建設局長とも話し合いをしたわけでありますが、一挙に下北を今取り上げるわけにいかないと、なぜいかないか、二七九、三三八と両方あるし、これにまた全く新たな路線を一つ加えるということであれば道路のメッシュ構成上問題が出てくる、つまり三本通すわけにはいかない、どっちかの路線を整備して高速にし定時性にする、高速は読んで字のごとくわかるんでありますが、定時性って一体どういうことだと、いや、何時までに行こうと思えば時間どおりに到着できるようなそういう性質の道路だ、それが定時性と言うんだということで、私もどうも珍しい説明を聞いたわけでありますが、それをむつに考えたい、恐らく二七九が考えられるんでありましょう。

 四全総(1987年)策定を前に国と県での話し合いがもたれ(少なくとも1986年以前か?)、青森県は下北にも高速道路を要望したが、国からは国道279号国道338号を通したばかりでもう一路線は無理だという回答がされたのである。
 それでも、何時までに行こうと思えば時間どおりに到着できるようなそういう性質の道路──すなわち「定時性」の高い道路を整備するという国の回答はあり、北村県知事はその路線を野辺地−むつ間の国道279号と受け止めたというものである。

 「定時性って一体どういうことだ」、「私もどうも珍しい説明を聞いた」という北村県知事の答弁にもある通り、何時までに行こうと思えば時間どおりに到着できるという説明はわかりにくいが、その後の整備の結果を見ると、国の考え方は理解しやすい。

 1991年3月の県議会での池田達也青森県土木部長の答弁が明快で、「縦断線形の改良を一層進めるほか、追い越し車線の設置JR大湊線の立体化等その効果的な整備の方策について検討」とある。

 高速道路が造れない=速度を向上させることができないなら、速度が低下しない「定時性」の高い道路を整備しようという考え方である。

 結局、むつ−野辺地間で平成以降で跨線橋の新設はなかったが、ゆずりあい車線は上り1か所(横浜町雲雀平)と下り1か所(むつ市中野沢)に新設され、一部で上下4車線化(むつ市奥内)も実施された。
 また、大間−むつ間でも、上り線1か所(風間浦村下風呂)と下り線1か所(旧大畑町木野部)に追越車線が追加された。

 陸奥湾沿いの国道279号は直線がちで線形は良いのだが、砂丘地帯を行くため起伏が激しく対向車の見通しが悪い所も多く、ゆずりあい車線は後続車に速度低下を強いるノロノロ運転の低速車を安全に追越できる貴重な道路設備であった。
高速化の時代】

 定時性の高い道路をめざす整備は進められてきたが、それで満足の結果にはなっていないわけで、1992(平成4)年12月11日の県議会では木下千代治県議から「道路の改良というものが余り見られない」という指摘も出ている。

 そんな中で話は前後するが、同年6月19日の県議会で北村県知事から「第十一次道路整備五カ年計画の中で下北道路を勝負しよう、何とかこれを物にしようという考え方を県でも持ってる」という発言があり、国の第十一次道路整備五カ年計画において下北半島縦貫道路地域高規格道路として指定されるよう青森県が動き出したことが確認できる。

 結局のところ、定時性では不十分だということで、高速道路整備へと舵を切ったのである。

 青森県当局と国との折衝を経て、第十一次道路整備五カ年計画(平成4年5月28日閣議決定)の目玉施策の一つである地域高規格道路下北半島縦貫道路も指定されることとなり、1995(平成7)年4月28日付で下北道の一部となる有戸バイパス野辺地バイパスが整備区間の指定を受けることになる。

 有戸バイパス野辺地北I.C−野辺地木明I.C野辺地バイパス野辺地木明I.C−野辺地ハーフI.C−野辺地I.Cのことである。
 両バイパスの指定から約10年の歳月を経て、野辺地北I.C−野辺地ハーフI.Cが2004年11月26日に下北道として初の開通区間となり、翌2005年12月2日には野辺地ハーフI.C−野辺地I.Cも延伸開通した。
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道の駅よこはま駐車場
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道の駅 横断幕拡大
【下北道建設促進横断幕 むつ以南では野辺地⇔むつの矢印パターンが多い印象】

 本論とは話が脱線するが、こうして歴史を紐解いてみると、下北半島縦貫道路の着工が決まった1995年4月というのは青森県知事が選挙で北村正哉から木村守男に代わった直後であり、下北道も、北村正哉知事が粘り強く交渉していた東北新幹線盛岡以北着工と似て見えてくる。
 新幹線整備の方で、フル規格整備を要望する地元に対し国がミニ規格(新幹線在来線直通特急)整備を提示することを「ウナギ(=フル規格)を頼んだら、アナゴやドジョウ(=ミニ規格)が出てきた」と揶揄する言葉があるが、下北が望んでいたウナギは高速道路であり、ドジョウの類の定時性の高い道路(ゆずりあい車線)ではなかったのである。

 私は北村正哉が好きだとか木村守男が嫌いだとかではないのだが、下北道の着工決定も、東北新幹線全線フル規格着工決定も、木村守男に選挙で敗れて知事の職を離れてからの出来事であり、それまでの粘り強い交渉を知ると北村知事はさぞや悔しい思いでみていただろうとも感じてしまう。

 本稿をもとに、次回以降の回では下北を目指した(一応)高規格道の未成部を紹介していきたい。

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