Yahoo!ニュースを見ていたらABA「大雨の影響で青森・東北町、七戸町で農作物など大規模浸水被害 復旧のめど立たず」というニュースが。
 
 同ニュースの記事を一部引用すると「東北町の間手場地区一帯で、およそ200ヘクタールが水没、このうち農作物については、田んぼなどおよそ79ヘクタールに被害が出ている」という。

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県道8号から遠望する間手場地区】
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【昭和30年代までは甲田沼があった】

 間手場(マテバ)という地名は聞き慣れないが、水没するなら甲田沼の所だろうとすぐにピンと来た。

 甲田沼とググってもほとんど検索に引っかかってこないが、小川原湖南西部、七戸町甲田の辺りに昭和30年代まで存在した沼である。

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 こちらは今年の3月に記事化した三内丸山 縄文海進を地理院地図でシミュレーションするで掲載した、海面を6m上昇させた場合の小川原湖周辺の図。
 今の上北町駅のある辺りから土場川や高瀬川方面は、大昔は小川原湖の奥の入り江のような場所だったらしい。

 海面の低下や、河川から運搬される土砂の堆積で小川原湖の入り江が陸地化して行っても、一部は水域として残り、その一部が甲田沼であり、間手場地区は湿地であったらしい。

甲田沼
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 甲田沼の推定範囲と、間手場地区を地理院地図にプロットしてみる。
 現在の土地利用の状況はほぼ全域が水田である。

 なにぶん大急ぎでこの記事を書いているので、甲田沼の面積や水深といったデータは手元にない。おそらく文献を当たらないと出てこないだろう。

 昨年6月に内潟沼(青森県北津軽郡)の話と題して津軽の十三湖干拓で消えた内潟を紹介したが、南部にも小川原湖干拓で消えた甲田沼があるという事実をいつか記事化したいと思っていた矢先の大雨災害だった。
 小川原湖と十三湖、どちらも汽水湖でシジミの一大産地として名高いが、双方に干拓事業の歴史があり、そして消えた内潟甲田沼という湖沼があるのだ。

甲田沼色別標高図
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 地理院地図の色別標高図機能を利用して、海抜0m以下を青で塗りつぶしてみると、甲田沼の跡も間手場地区真っ青になってしまった。

 甲田沼跡間手場地区小川原湖と同じ海抜0メートル未満の低地なのだ。

 現在も同地には甲田沼の名を後世に伝える土場川甲田沼ポンプ場が存在し、津軽の内潟と同じようにポンプで排水して干陸化したのが想像される。
 
 甲田沼も内潟とほぼ同じ頃に干拓されたようだ。

 1966(昭和41)年7月1日に国土地理院に撮影された航空写真を見ると、まだ沼の跡のソイルマークらしきものが白黒写真でも見えるが、すでに沼跡の中に造成された水田の区画が見え始めていて、遅くとも1966年頃までには甲田沼は干陸化して消えていたであろう。
 1963(昭和38)年6月17日に国土地理院が撮影したものでは、水が抜かれてしぼんで小さくなった甲田沼が映っており、干拓途中の姿が見て取れる。
 内潟が東西に分断されて水が抜かれていく過程の写真を見たときもそうだったが、見ていて辛いものも正直ある。


【土場川甲田沼ポンプ場のストリートビュー】

 東北町だけではいかんともしがたい事態ということで、国も支援に乗り出しているというが、往年の干拓事業のように大規模に排水しないと元に戻らないかもしれない。

 内潟沼の色別標高図を作った記事の際、『あってはならないことだが、万が一、日本海の大津波や岩木川水系の大氾濫で十三湖周辺の低地が水浸しになるようなことがあれば、水が引いていく過程で往年の内潟沼の跡地に水が残って見えるという時期もあるのかもしれない。』と書いたが、それに近い災害が甲田沼周辺──往年の小川原湖の入り江に相当する間手場地区で発生してしまった。
 干拓地が水域として復活してしまった事例は京都の巨椋池でも1953(昭和28)年に発生しているようだが、こうして現実を目の当たりにすると何ともやるせないものがある。

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