はじめに
 ネットで確認できるテープ空輸に関する言及
 その割に扱いの小さいSTV社史の年表
 電電公社米澤総裁が叱られた参議院逓信委員会から
 「NHK年鑑'69」にもテープ空輸の文字が無い
 「北海道放送二十年」にもテープ空輸の文字が無い
 「青森放送二十五年史」にもテープ空輸の文字が無い
 NHK青森「歳月 あおもり ふれあいの五十年」に空輸の文字が…あったが
 むすびに

はじめに


 今から56年前の1968(昭和43)年5月16日は、本県(青森)に甚大な被害をもたらした十勝沖地震の発災日である。
 名前こそ十勝沖地震とはいうものの、実際の震源地は十勝沖ではなく青森県東方沖(三陸沖北部)であり、十勝地方より青森県の方で大きな被害が出たことでも知られている。

 電電公社マイクロ回線網の記事も書いたことだし、1968年十勝沖地震に触れないわけにもいくまい。

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【十勝沖地震で廃線になった南部鉄道五戸駅跡の記念碑)】

 1968年十勝沖地震の発災によって、電電公社マイクロ回線網の東仙札幹線で通信が途絶し、テレビ回線への影響があったことは現NTTの公式発表からも事実である。
 途絶の原因となった地点は上北郡東北町の電電公社甲地統制無線中継所。本稿では以下、甲地無線中継所と略する。
 ところが、半世紀以上前のことということもあり、詳細な情報があまりよくわからない。

ネットで確認できるテープ空輸に関する言及

 
 電電公社マイクロ回線絡みの件で調べれば調べるほどネット上の情報が嘘だという資料が出てきた経験から、インターネット上の情報はどうも怪しい気がする。
 別にWikipediaを標的にしている訳ではないのだが、1968年十勝沖地震や電電公社マイクロ網の途絶について記載がある代表的なサイトの一つとして取り上げさせて頂く。

wikipedia十勝沖地震 NTT中継回線
【Wikipediaのスクリーンショット画像(一部加工しています)】

 「十勝沖地震 (1968年)」の方では、“激震で本州と北海道を結ぶ海底ケーブルが切断され通信が途絶。北海道は一時孤立状態になった。NTT中継回線(当時は電電公社)も青森県の甲地(東北町)で途切れ、北海道の局に東京や大阪からビデオテープが空輸される事態となった。”とあり、「NTT中継回線」の方では、“ 十勝沖地震の影響で、青森県東北町の甲地中継局で無線回線が切れ、東京キー局・大阪準キー局各局から在札各局への番組配信が出来なくなり、NHK・HBC・STVで放送予定の番組の多くが、東京や大阪からビデオテープで空輸される事態となる。”とある。

 本当にか?

その割に扱いの小さいSTV社史の年表

 
 というのは、STVが1978年に発行した「札幌テレビ放送二十年史」で十勝沖地震に触れた扱いがいささか小さく、ビデオテープ輸送についての言及がないからだ。
 なんと720頁から721頁にかけてのたった3行の年表記録で「5・16 十勝沖地震で本州と北海道を結ぶマイクロ回線が3時間にわたり中断、NHK・民放ともに影響を受ける」しか無い。
 STVの記録で、マイクロ回線の中断時間が3時間なのに、NTVがビデオテープを空輸し実際にSTVがテープで放送したのだろうか。
 東京麹町のNTVで放送予定の番組をダビング→羽田に急行→飛行機→千歳から北1条西8丁目のSTVに到着、という流れより電電公社の復旧作業の方が早かったのではないか。

 参考までに、「札幌テレビ放送二十年史」で1968(昭和43)年関連の記述を探すと、報道の出来事として288〜289頁にかけて長沼のミサイル基地建設にともなう保安林解除の問題(いわゆる後の長沼ナイキ基地訴訟)や、美唄鑛や北炭平和鑛の坑内火災と崩落事故、昭和天皇皇后を迎え開かれた北海道百年記念式典、札幌医大の日本初の心臓移植などが取り上げられていたり、報道以外の番組としても開局したてのHTBの肩代わりをしてNET系の「ゆく年くる年」の北海道制作に関わったという武勇伝(380頁)もあるが、十勝沖地震については記載が年表の3行を除いて見つからない。

 北海道内の被害が青森県に比べると大きくなかったのはあるにせよ、本当にマイクロ回線でネット受けができなくなり東京からテープ空輸があったのなら、もう少し記述されていてもよいのにと思うが、「札幌テレビ放送二十年史」は十勝沖地震についての記載が少ない。

2024-05-20追記
 八戸市が1969年に発行した「地震:'68十勝沖地震の記録」の154頁に、STVの対応を発見しましたので下記の通り追記します。

札幌テレビは、<ロンパールーム>(午前11時20分−11時50分)、<NNNワイドニュース>(午後0時30分−1時)を自社取材の「地震情報」にさしかえたほか、フィルム、VTRのレギュラー放送のほか、"持ち置き番組"(30分もの)を1本放送した。ここでも東京との連絡にアマチュア無線を利用したという。

 フィルム、VTRの文字はあるが、レギュラー放送ということで、緊急的に空輸されたものではなく、地震があっても無くても放送された番組である。どうしても無理なところは自社の地震情報と、"持ち置き番組"で凌いで、13時台のマイクロ回線が復旧したことになる。

電電公社米澤総裁が叱られた参議院逓信委員会から

 
在りし日の甲地無線中継所(東北の電信電話史より)
【在りし日の甲地無線中継所(東北の電信電話史867頁より転載)】

 ということで、電電公社側の記録を調べてみよう。
 まずは電電公社の米澤滋総裁が国会に招致されて地震の被害および対応について説明している、昭和43年5月21日の第58回参議院逓信委員会第18号の議事録を確認してみる。
 郵便局員から代議士になった森勝治議員が、小林武治郵政大臣が米澤総裁を呼び出して相当に「おしかりになられた」のではないかと質問し、小林郵政相が「大体そのとおり」と認めていて、だいぶ米澤総裁は叱られたようだ。議事録の内容やその他資料から時系列にまとめるとこうだ。

1968年十勝沖地震 電電公社関連時系列
1968(昭和43)年5月16日
09時49分
発災。
甲地無線中継所(青森県上北郡東北町)で停電及び電源障害。盛岡以北の電話並びにテレビ回線が不通になる。
甲地無線中継所は電子管のマイクロ方式に使用されるスリー・エンジン五台が設置されていたが、外部に停電事故が起こり、その上エンジンは地震により、ベッドからずり落ちて傾斜したため。
11時10分青森・弘前方面は秋田経由の裏日本マイクロ回線に切り替え電話復旧。
11時45分甲地無線中継所、テレビ映像四回線を復旧、北海道方面のテレビ回線が回復。
16時30分青森方面のテレビ回線を復旧。

5月21日
電電公社米澤総裁、本州−北海道間に第二マイクロルートを同年十二月中旬に完成の予定で建設中だが、工期を三か月短縮したい考えを参議院逓信委員会会議で表明。

5月29日
電電公社が蓬田無線中継所(青森県東津軽郡蓬田村)に第二マイクロルートのアンテナを設置(1968.05.30東奥日報朝刊)。

 Wikipediaにはパラボラがずれたことが原因かのような注釈もあり、本当にパラボラの角度がズレて対向局と通信できないほど損失が大きくなるような被害が出たなら、それこそ復旧にはもっと時間がかかって本当にテープの世話にならざるを得なかったかもしれないが、原因は電源喪失である。

 ともあれ電電公社米澤総裁の国会での報告によれば、北海道方面のテレビ回線が回復したのが11時45分、青森方面のテレビ回線が回復したのが16時30分だ。
 電電公社の記録によれば、テレビ回線の障害が解消するまでに要した時間は北海道が1時間56分程度、被害の大きかった青森が6時間41分かかったことになる。

 道内に当時あったテレビ局はNHKとHBC、STVの3局のみで、民放3局目のHTBは開局まで半年ほど前になる。青森はNHKとRABのみ。

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【2024年現在の甲地無線中継所跡】

 テープを空輸する必要が高かったのは、障害発生時間の長さ的には北海道より青森県側だったのではないか。無論、放送区域の人口や経済規模を考えれば、北海道が青森より優先される理屈もあるとは思うが、それにしても青森側でテープ空輸の話を見ないのはなぜだろう。Googleに「NTT中継回線」と入力すると2番目くらいに出てくるパワポのプレゼン資料のようなページにも、空輸について記載があるが、札幌の文字はあれど青森の文字が無い。
 旧青森空港にも大きな被害が無かったはずだ。後述する「青森放送二十五年史」によれば、NTVの報道の応援部隊がパイパー機で青森に駆けつけているくらいだ。

 電電公社が発行した「1968年十勝沖地震災害記録(昭和43年5月16日)」にもテープを空輸したに類する言及は見つからず、概ね、参院で米澤総裁が述べた内容と大きく変わったものは無かった。
 
 かくなる上はNHKとHBC、RABの社史で確認することにする。

「NHK年鑑'69」にもテープ空輸の文字が無い

 
 まずはNHK。
 本当は札幌局、さらに細かく道内の函館局とかも分けて調べた方が良いのだろうけど、横着して「NHK年鑑'69」で調べてみる。発行年が1968年十勝沖地震の翌年、1969(昭和44)年だから情報鮮度はおそらく他の放送局より高い。テープを空輸したのなら送り主は東京渋谷の本部であるから、情報確度も高いだろう。
 まずは発行した渋谷の本部が書いた部分(130〜131頁)から引用しよう。

「3.十勝沖地震

5月16日午前9時49分ごろ北海道と東北地方に大地震がおこり、山くずれ、家屋の倒壊、火災発生の被害があったほか、国鉄、道路網、電話線が各地で寸断され、1道4県で死者50人を出した。この地震についてはテレビ・ラジオで特別番組を編成したほか、被災地の状況を『時の動き』、『スタジオ102』で放送した。
『十勝沖地震─大地震に備えて』 5.16 総合 後9:25〜10:00 /出席:宮村摂三、村野賢哉ほか。
『時の動き─北海道、東北を襲った大地震』(東京・仙台・札幌を結んで) 5.16 第1 後8:03
『時の動き─被災地からの報告〜 十勝沖地震・青森の被害』 5.17 総合 後10:30〜10:50
『スタジオ102─'68十勝沖地震被災地から』(中継) 5.17 総合 前7:35
(以下略)」

 以下略としたのは、5月18日以降の番組の羅列しかないため。
 東京渋谷の本部が書いた部分に、テープを空輸したなどという記載は存在しない。
 とりあえず、発災当日の21時25分から放送した特別番組『十勝沖地震─大地震に備えて』は、NHK総合・札幌(JOIK)やNHK総合・函館(JOVK)といった道内各局とNHK総合・青森(JOTG)のいずれも、電電公社のマイクロ回線が復旧後だから問題なく東京からネット受けできたことは間違いない。

 次は青森を統括していた仙台中央放送局の記述(394頁)。
  
� �1968年十勝沖地震 43.5.16
 午前9時49分、襟裳岬南々東150キロ(深さ20キロ)で発生した地震は、マグニチュード7.8を記録し、東北・北海道で大きな被害があった。被害は青森、岩手、宮城、秋田の4県にまたがり、最も被害の大きかった青森県では、死者46人、行くえ不明2人、家屋の倒壊54,265むね、鉄道、道路の損壊、漁村その他の被害総額は、およそ470億4,000万円であった。(中略)
関連番組:43.5.17・5.22『時の動き』(青森全中)、5.22『明るい農村』(青森全中)、5.27『特別番組』のほか、総合テレビと第1放送で全中放送した。(→p.130)
ローカルでは、総合テレビと第1放送で、地震情報を管中放送したほか、関連番組を管中または各局ローカルで編成した。また、八戸局では、地震発生後、第1・第2放送線が不通となったため、回復するまで、地震情報、被害状況、避難先の状況、たずね人、災害救助に対する官公庁のおしらせなどを単独編成し、放送を継続した。(八戸局第1、第2放送線回復は、5.17 前6:01)

 仙台中央放送局が書いた部分にもテープを空輸したなどという記載は存在しない。
 テレビ関係では翌5月17日以降で青森から全国中継を出したとかの情報くらいしかない。
 特筆すべきことがあるとすれば、ラジオの方は第1・第2放送線が不通となったため八戸放送局(JOTQ)が独自に地震情報の特別番組を放送したことだろう。
 東京からの回線が途絶したからと言って、青森で手も足も出なかったわけではないのだろう。

 東京渋谷、仙台と来て、最後は札幌中央放送局の記述(401頁)。

5. 1968年十勝沖地震の放送
 5月16日午前9時49分、北海道・東北・関東地方を中心に強い地震が襲った。震源地はエリモ岬南々東150キロ、深さ20キロの地点で、マグニチュード7.8。地震発生と同時に電々公社青森県甲地中継所の故障により、東京〜札幌間のマイクロ回線が中断し、北海道は電波上孤立状態となった。道内の回線は確保されていたので、直ちに、札幌発管内向け災害放送の体制に入り、回線が回復するまでの間、テレビは約3時間30分、ラジオは約4時間10分にわたって被害状況、津波情報などを放送した。その後も、午後7時39分の余震に伴う津波警報、およびその解除など、当日の放送終了まで災害放送を続けた。また、道内の各放送局でも、適宜ローカルで現地の被害状況を報告した。

 札幌中央放送局の報告になってようやく、甲地無線中継所でマイクロ回線網の途絶が起きたことについて言及が出て来た。
 しかし、札幌局の報告でもテープを空輸したなどという記載は存在しない。
 とりあえず道内回線が生きていたのは間違いなく、NHK札幌(IK)を基点に函館(VK)など道内各局に地震特番を放送したという。

 仙台管内、NHK青森(TG)の対応は「NHK年鑑'69」では詳らかでないが、北海道のNHKは東京からの回線が途絶えてもしっかり地震に関する放送を継続し、テープ空輸に頼ることなく電電公社の回線復旧まで約3時間半を繋いだのである。

「北海道放送二十年」にもテープ空輸の文字が無い


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【HBC旧本社跡】

 青森側を調べる前に、東京以北で最初に民放としてテレビ放送を実施した歴史を持つ北海道放送(HBC)も見てみよう。
 資料は何回かお世話になっている「北海道放送二十年」だ。発行年は1972(昭和47)年で、HBCの社史としてはもっとも1968年十勝沖地震から近い年度のものになる。TBSは東京赤坂から北1条西5丁目にテープを空輸したのだろうか。もう一度読み直すと驚くべき記載を見つけた。

年表(巻末75頁)
1968(昭和43)年5月16日
【北海道放送】
テレビ「奥さまスタジオ」放送中に十勝沖地震発生し、室蘭出張中の中継車により地震関係の生中継放送
十勝沖地震発生、テレビ、ラジオ速報・特番放送、本州と北海道を結ぶマイクロ回線故障、テレビ中継四時間にわたり中断
十勝沖地震に伴う速報放送のため放送時間を午前二時二十分まで延長
【放送業界】
十勝沖地震発生、本州と北海道間のマイクロ回線四時間停止、北海道の電波を青森局で放送波中継、秋田回りでニュース速報および特番放送

 さすが!皆様の北海道放送!

 HBCの社史・「北海道放送二十年」での1968年十勝沖地震の扱いは上記の通りで短文ではあるが、STVの「札幌テレビ放送二十年史」より内容は充実しており、電電公社マイクロが途絶している四時間は自社の生中継特番でしっかり繋いだのである。
 そしてHBC関係ではないが重要な情報も記録されているではないか。

 青森局で北海道の電波を受信して放送波中継!?それを電電公社マイクロ回線の秋田回り回線で東京へニュースを送っていただと!?

 残念ながら、青森で放送波中継して東京へ秋田経由マイクロで送る技を披露したのはHBCではない。
 HBC青森支局はあったが、「北海道放送二十年」によれば1966(昭和41)年2月に青森市浦町奥野315(当時)に開設された営業拠点であり、従来函館支社が担当していた青森県の味噌や醤油などのスポンサーや秋田の清酒産業の営業を重点的に担当していたとされる。
 青木貞伸編著(1981)「日本の民放ネットワーク : JNNの軌跡」によれば、当時TBS系列局のなかった青森県はIBCの取材範囲にあったことになっており(同183頁)、HBC青森支局は報道や技術の拠点ではなかった。

 ともあれ「放送業界」の出来事としてテープを空輸なんて言及は存在しない。マイクロ回線故障があった、それだけ。そしてHBCは現有体制で報道特番など出来る限りの対応をしたのだ。
 通常より遅く翌日未明2時過ぎまで地震に関する放送を延長しているくらいなのだ。

 それにしてもHBC青森支局ではない青森局とは何だ?電電公社の青森局のことだろうか?それとも青森県の放送局の青森局だろうか。

「青森放送二十五年史」にもテープ空輸の文字が無い


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【青森放送本社(青森市)】

 北海道の各局の動向が見えてきたところで青森に渡り、本県のRABが1980年に発行した「青森放送二十五年史」をみていく。「青森放送二十五年史」は被災から12年経過しているが、なんと十勝沖地震として207〜211頁の5頁にも渡ってつぶさに記録を残してくれていた。
 興味のある方は実際に図書館等で読んでいただければと思う。

 実際の放送対応に絞って下記の通り引用する。

この地震による放送の停波事故ならびに運用状況は、(中略)テレビ関係では、九時五十分から十時二十分まで停波し、十時二十分から十一時七分までローカル出しを行ったが、これは音声送信機が故障していたため、映像だけの放送であった。放送用マイクロ回線は、電電公社へ折衝した結果、NHK総合・教育で使用していた二回線のうち、教育テレビ回線が十二時二十五分にRABテレビに切り替えられた。このほか八戸放送局では、(中略)テレビは送信所の機械故障のため九時五十分から停波し、本社から技術局長ほか二名の応援による応急処置で、十四時十五分にやっと放送が開始された。

 RABは電電公社に折衝して12時25分から教育テレビ回線を譲り受けていた。

 RABは機器の被害が大きかったようで、音声送信機が故障して映像のみの放送(アナログ放送の1chは映像91.25MHz、音声95.75MHzで別個)であったとは言え、被災31分後の10時20分からローカルでの放送を再開しているのである。
 そして、教育テレビ用の電電公社マイクロ回線を折衝の末に譲り受け、12時25分からは東京・NTVから番組を受けられる体制を回復している。

 ということで、RABがマイクロ回線を受けられなかった影響時間は9時49分から12時25分までの2時間36分である。
 青森の場合も札幌と同様、東京からビデオテープを空輸して到着するより早くマイクロ回線が復活したことになる。

 東京や大阪の放送局がテープを用立てて、羽田や伊丹から千歳や青森に空輸して札幌と青森の放送局に着くまでの時間より、電電公社マイクロ回線の方が早く復旧しているのである。
 空輸したビデオテープでのネット放送は無かったのではないか。

 しかしHBCの「北海道放送二十年」にある青森局で放送波中継の謎ははっきりしない。

NHK青森「歳月 あおもり ふれあいの五十年」に空輸の文字が…あったが


 「NHK年鑑'69」から24年後の1993年の発行となるがNHK青森放送局(JOTG)が発行した「歳月 あおもり ふれあいの五十年」も見ておこう。
 こちらも231〜235頁の5頁が十勝沖地震の記録に割かれており、回線に関する部分を引用したい。

電電公社の通信回線が途切れてしまった。青森県下北の付け根にある電電公社の甲地中継所の発電装置が故障、本州と北海道を結ぶマイクロ回線が杜絶した。この瞬間から北海道と青森県では東京からのテレビの映像が切れてしまったのである。(中略)青森局は秋田まわりのテレビマイクロ回線を使って、午前十時から十時半にかけてテレビ、ラジオともに東京からの全国放送を中継する一方随時ローカルの地震ニュースを流した。この頃NHK札幌局は、青森局と同様東京と連絡がとれず、生き残っていた回線を使って北海道向けに地震の放送をしていた。ところが、当日のスタジオ一〇二の放送でたまたまNHK青森局の鷹森山テレビ中継所に上っていた局員が、函館からの放送波を傍受し、それをそのまま秋田まわりのマイクロ回線にのせることに成功、こうして北海道の被害状況が全国へ流れた。
 南部地方は大きな被害に加えて電話、ガスの不通、停電、断水。
 八戸港へは二・八メートルの津波が襲来、住民は恐怖と混乱の生活におちいった。(中略)八戸局は、孤立状態の中青森局からのラジオ放送を無線中継する一方で、随時県南部地域向けローカル放送でニュースを放送した。連絡は東北電力の専用電話で青森局と連絡がとれ、また、アマ無線の協力で仙台局とも連絡が取れるようになった。しかし、電電公社の回線故障で貴重な映像は送れず青森局へは陸送と空輸で行なった。
 青森局技術は、混乱の中で放送の送出、回線の確保、電波維持、フィルム現像処理、現場からの中継など全員による不眠不休の活躍でやり遂げることができた。秋田回りの回線確保は、回線断の八分後に東京からの映像を放送することができた。また、好運であった、北海道の映像を鷹森山で受信、秋田回り回線で全国放送ができた。

 NHK青森(TG)は発災から8分後には秋田回り回線に切り替えて東京からマイクロ回線ネット受けを回復、さらに3分後の10時から全国ネットの地震ニュースを放送していた!
 そしてたまたま鷹森山にいたスタッフがNHK函館(VK)4chを受信して秋田回り回線に札幌局(IK)発の北海道内向けニュースをのせることにも成功している。

 NHK青森(TG)は発災からわずか8分で、秋田回りマイクロ回線への切り替えでマイクロネット受けの体制を取り戻している。
 それから青森局とは鷹森山(青森市)にあったNHK青森(TG)の青森親局送信所のことか。NHK青森(TG)は鷹森山でNHK函館(VK)を受信して、生きていたマイクロを駆使して離れ業をやってのけている。

 ともかく一旦、東北電気通信局が1967年に発行した「東北の電信電話史」や、1965年に東京放送社史編集室が発行した「東京放送のあゆみ」、1966年に日本民間放送連盟が発行した「日本放送年鑑'66」、1967年に日本電信電話公社保全局伝送無線課が制作した「極超短波(4・6GHz帯)システム図」、1976年に鶴岡電報電話局が発行した「電電鶴岡のあゆみ」、秋田魁新報社が新聞記事から一部抽出してまとめている「秋田魁年鑑1966年版」など複数の資料から、上記の通り1968年十勝沖地震当時の青森周辺の電電公社マイクロ回線網をまとめておこう。

電電公社青森テレビマイクロ回線196805
【1968年5月当時の青森周辺の電電公社マイクロ網】

 搬送ケーブルによるVSB方式だった甲地−青森間も平内無線中継所(東津軽郡平内町)を経由したマイクロ波伝送方式に変更となり、1967年には秋田以北のマイクロ回線網も森山−十ノ瀬−黒森−青森と完成した(新潟−酒田も繋がった)。
 ただし秋田−青森のマイクロ回線を恒常的に利用していたNHKも民放も無く、NHK青森(TG)もRABも従来通り東仙札幹線の甲地無線中継所から分岐させていたという。
 しかし十勝沖地震で東仙札幹線の分岐点となる甲地無線中継所でトラブルが発生したため、8分後には秋田−森山−十ノ瀬−黒森−青森ルートの下りマイクロ回線に切り替えてNHK青森(TG)は東京からの映像もネット受け出来るようになっていたし、12時25分にはRABに教育テレビ用回線を貸す余裕すら持っている。さらにNHK札幌(IK)制作の道内向け地震特番も青森で受信して東京へ転送することまでしたのだ。

 そして注目すべきはようやく見つかった「電電公社の回線故障で貴重な映像は送れず青森局へは陸送と空輸で行なった」の文字。
 要は八戸で撮影した貴重なニュース映像素材が電電公社マイクロで青森に送れなくなったので陸送と空輸したということであるが、報道のテープ空輸なら青森でも北海道でもあり得るだろう。

 この八戸から青森への報道テープ空輸のくだりが後年になって尾ひれ羽ひれついてWikipediaの「東京キー局・大阪準キー局各局から在札各局への番組配信が出来なくなり、NHK・HBC・STVで放送予定の番組の多くが、東京や大阪からビデオテープで空輸される事態となる」のような形に変わったのではないかと推測する。

 しかしなぜこんな重要な記録を1969年の時点で「NHK年鑑'69」に残さなかったのだろう。
 原稿スペースの都合もあるのだろうが、東京渋谷の報告にも書かれていないし、青森を統括する仙台中央放送局が全く記録に残していないのは酷な気がする。仙台の下部組織の青森の職員が秋田回りを選択し、縄張りが隣の札幌管轄の函館局の放送波を受信して東京に送るという活躍が、仙台中央放送局の担当にとっては面白くなかったか、あるいは札幌中央放送局の顔を立てたのか。それとも執筆担当者が全く興味がなかったのか。わからない。

むすびに


 以上、様々な資料、それも直接的な被害を受けた各放送局(NHK、北海道放送(HBC)、札幌テレビ放送(STV)、青森放送(RAB))が公式に発行した社史の類で調査したが、東京や大阪のキー局・準キー局からテープを空輸などという記載が存在しなかった。
 甲地無線中継所の被害に関する電電公社の資料にも、放送局が東京や大阪のキー局・準キー局からテープを空輸という記載も存在しなかった。
 強いて言えばNHK青森放送局(JOTG)が1993年に発行した「歳月 あおもり ふれあいの五十年」に、八戸で撮影したニュース映像素材を陸送と空輸で青森に送ったという記録があるのみである。

 当ブログとしては、電電公社と放送局側で発表の差異はあるが概ね13時台迄にはマイクロ回線の復旧がされており、東京や大阪でダビングテープを用立てて空輸して札幌や青森の放送局がテープ再生・放送の体制を整えるより、マイクロ回線復旧の方が早かっただろうことから、Wikipediaやその他のサイトにある東京や大阪からのテープ空輸の話は信ずるに足りるのか怪しいと思っており、八戸から青森へのニュース映像の空輸という事実に尾ひれ羽ひれが付いて広まった話の類ではないかと思う。

1968年十勝沖地震 放送各社対応まとめ
NHK札幌(JOIK)
NHK函館(JOVK)
他道内各局
9時49分の発災直後から電電公社東仙札幹線が途絶。
直ちに、札幌発管内向け災害放送の体制に入り、回線が回復するまでの間、テレビは約3時間30分、ラジオは約4時間10分にわたって被害状況、津波情報などを放送した。
また、NHK青森(JOTG)が青森・鷹森山送信所でNHK函館(JOVK)を受信して秋田経由の電電公社上りマイクロ回線に接続することに成功し、道内向け災害放送を東京に送ることが出来た。
北海道放送
(HBC)
9時49分の発災直後から電電公社東仙札幹線が途絶。
発災は「奥さまスタジオ」放送中で、室蘭出張中の中継車により地震関係の生中継放送開始。
本州と北海道を結ぶマイクロ回線故障、テレビ中継四時間にわたり中断。
十勝沖地震に伴う速報放送のため放送時間を午前二時二十分まで延長。
札幌テレビ放送
(STV)
9時49分の発災直後から電電公社東仙札幹線が途絶。
マイクロ回線が3時間にわたり中断、影響を受ける。
「ロンパールーム」(午前11時20分−11時50分)、「NNNワイドニュース」(午後0時30分−1時)を自社取材の「地震情報」にさしかえた。
NHK青森(JOTG)9時49分の発災直後から電電公社東仙札幹線が途絶。
9時57分、秋田−青森の電電公社マイクロ回線下り線に切り替え、東京からのネット受けを回復。
10時〜10時30分、東京からの全国放送を中継しつつ、随時ローカルの地震ニュースを放送する対応。
さらに鷹森山送信所でNHK函館(JOVK)を受信し、NHK札幌(JOIK)が放送する道内向け災害放送を秋田経由の電電公社上りマイクロ回線に接続することに成功し、東京に送ることが出来た。
青森放送
(RAB)
9時49分の発災直後から電電公社東仙札幹線が途絶。
9時50分〜10時20分で停波。10時20分からローカルで災害放送対応。
12時25分、電電公社に折衝の結果、教育テレビ用回線をRAB用のNTV系回線として使用することに成功。

 もちろん再びマイクロ回線の途絶が発生しては困るので、備えとしてテープを用意した放送局はあったかもしれないが。
 日本放送出版協会が1968年に発行した「放送文化23(7)」によれば「キー局では、マイクロ回線が長時間にわたって回復しない場合を予想してフィルム・VTRの空輸を計画、現地局も空輸が遅れた場合にそなえてフィルムの確保に奔走した。復旧が早かったため一応ことなきをえた」とあり、「空輸は計画止まり・実際は空輸していない」が真相だろう。

 NHK青森放送局(JOTG)にいたっては被災から11分で秋田回り回線を使うこともできたので、少なくとも実際の放送でテープネットの対応は無かったのであろう。
 生放送のニュースや、当時のキラーコンテンツ・巨人戦はテープではなく電電公社マイクロ網でなければネット出来ないのは火を見るより明らかである。備えとしてテープが用意されたにしても、対象になり得る番組としては一部だっただろう。

 以上より、テープをダビングして空輸するより早く、NHK青森放送局(JOTG)は被災8分後の9時57分にはマイクロ回線ネット受けの体制に戻っているし、電電公社の技術陣も13時台までには北海道と青森の各局がマイクロ回線を使える状況まで復旧させたことは間違いなく、北海道や青森の放送局が敢えてマイクロ回線を使わずテープネット放送することは無かったと結論付けたい。

 当時、甲地無線中継所を中心に通信網の復旧に当たった作業員の多くは青森や八戸の電電公社職員である。自身も被災者でありながら、発災後から迅速に現地に入り不眠不休の作業に徹した彼らに「テレビ局がマイクロ回線を使えず、東京や大阪からテープを空輸して放送したなどど言う事実なんか無かったでしょう」と敬意を表して終わりとする。
2024-05-16 19:00追記
 X(旧Twitter)の方に相互FFの105Series F11様よりコメントがあり、岩波ジュニア新書で1979年に発行された岡村黎明著・「テレビは変わる」に、十勝沖地震での「大空輸作戦」の記述があったような気がすると情報提供をいただき、実際に読んでみました。
 当該頁は84頁ですが、おわん(パラボラアンテナ)が僅かに傾いたのが原因で、甲地が山の奥深くで簡単に行けない場所であるような言及がありました。
 しかしながら電電公社の資料などから原因は電源喪失であり、東奥日報の2009年3月28日付夕刊の連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 7/震災を越えて(上)/設備・回線復旧に全力」によれば、発災当時電電公社青森統制無線中継所・整備課職員だったI氏は四輪駆動車で甲地無線中継所に到達し救援に携わっており、実際に午前中のうちにマイクロ回線は復旧し始めています。
 著者の岡村黎明氏の記述した、回線途絶の原因や甲地の地理条件などは事実と乖離しており、「大作戦」という割には準備や輸送など具体的な記述が少なく、当ブログとしては資料として精度はいかがなものかと考える次第です。
 しかし、マイクロ回線の記事の「山口放送三十年史」の時にも同じことを思いましたが、信頼できそうな書籍にも事実と異なることが書かれているのだから、そりゃあWikipediaや個人サイト、個人アカウントも間違えるよなあという感じがします。

2024-05-24 09:00追記
 1968年十勝沖地震で甚大な被害を受けた地域である八戸市が1969年に発行した「地震:'68十勝沖地震の記録」でも、154頁で下記の記述を発見しましたので、当ブログとしては岡村黎明氏が「テレビは変わる」で記述した「大空輸作戦」は偽情報である可能性が高いと表明します。

「キー局では、マイクロ回線が長時間にわたって回復しない場合を予想してフィルム・VTRの空輸を計画、現地局も空輸が遅れた場合にそなえてフィルムの確保に奔走した。復旧が早かったため一応ことなきをえたが、マイクロ事故対策も、これからは"非常事態対策"の一つに加えられてよいようである。」

 なお、岡村黎明氏がデマを流布したとか、嘘を吐いたと非難するものではないことを明記します。
 岡村黎明氏が岩波ジュニア新書という著書で、事実ではない情報を流布したことは批判されて然るべきですが、1+1=3と回答してしまった子供を嘘つきだとかデマだと非難することが無いのと同じく、原因は岡村黎明氏がただの確認不十分ないしは思い込みで起こした間違いとみるべきでしょう。
 
◆引用文献・参考文献・ウェブサイト

・青木貞伸編著(1981)「日本の民放ネットワーク : JNNの軌跡」JNNネットワーク協議会
・青森放送社史編纂委員会(1980)「青森放送二十五年史」
・秋田魁新報社(1966)「秋田魁年鑑1966年版」
・札幌テレビ放送社史編纂委員会編(1978)「札幌テレビ放送二十年史」
・鶴岡電報電話局(1976)「電電鶴岡のあゆみ」
・東奥日報社(2009)「2009年3月26日付夕刊 連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 5/積滞電話解消へ/増える回線 テレビも伝送」
・東奥日報社(2009)「2009年3月28日付夕刊 連載/ふるさとあの瞬間(とき)/電信電話の記憶 7/震災を越えて(上)/設備・回線復旧に全力」
・東奥日報社(2009)「2009年3月30日付夕刊 8/震災を越えて(下)/ケーブル工事3年がかり」
・東京放送社史編集室(1965)「東京放送のあゆみ」
・東北電気通信局(1967)「東北の電信電話史」
・日本電信電話公社保全局/ほか編(1969)「1968年十勝沖地震災害記録(昭和43年5月16日)」
・日本放送協会(1969)「NHK年鑑'69」
・日本放送協会青森放送局(1993)「歳月 あおもりふれあいの五十年」
・日本放送出版協会(1967)「放送文化 23(7)」
・日本民間放送連盟(1966)「日本放送年鑑 1966(昭41)年版」
・八戸市(1969)「地震:'68十勝沖地震の記録」
・北海道放送社史編纂室・編(1972)「北海道放送二十年」

 

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