電電公社マイクロウェーブ伝送回線が開通したのは1954(昭和29)年の東京・名古屋・大阪間が最初であるが、それ以前の超短波・極超短波による無線電話回線網について取り上げていきたい。

 出典は、日本電信電話公社二十五年史編集委員会が1978年に発行した「日本電信電話公社二十五年史 別巻」の321頁から収録されている超短波・極超短波方式経路図(昭28)である。

 地図を見ていく前に、超短波方式電話回線について軽く説明したい。電波監理委員会 編(1950)「日本無線史 第1巻」が詳しく、同書に沿って、日本電信電話公社東北電気通信局編(1982)「東北の電信電話 公社30周年」や北海道電気通信局 編(1964)「北海道の電信電話史」や日本電信電話公社東北電気通信局(1964)「東北電信電話史資料 〔第10 第1〕」などを補助的に用いて記述する。

超短波・極超短波方式電話回線史
1931(昭和6)年逓信省電氣試験所の木村六郎と上野茂敏らが東京・筑波山間で通信実験。
1932(昭和7)年東北帝大の宇田新太郎と仙台逓信局の小原武顕らが酒田・飛島間で通話試験に成功。
1934(昭和9)年4月小樽・天売島間の海底線障碍の際、羽幌・焼尻島間で超短波回線による電信回線を構築し、電報総数3000余通を疎通。
1934(昭和9)年7月京都嵐山の国有林と渡月橋上流の川畔において同時送受話試験に成功。
1936(昭和11)年2月逓信省工務局調査課長の松前重義と米澤滋、日本電氣の田中信高らが石崎・当別間の津軽海峡で超短波多重電話通信試験に成功。
1938(昭和13)年1月日本電氣が多重電話送信機、受信機、端局装置を製作。
1940(昭和15)年2月石崎・当別間で超短波多重電話回線が開通、実用化される。
1940(昭和15)年7月米澤滋らが稚内・白主間の宗谷海峡で超短波伝播試験。
1940(昭和15)年9月今治・魚島間で宇田式超短波装置による超短波多重電話回線が開通。
1943(昭和18)年11月逓信省が鉄道省と統合し、運輸通信省になる。
1945(昭和20)年5月運輸通信省から旧逓信省部門が分離され、逓信院発足。
1945(昭和20)年8月日本、第二次世界大戦で敗戦。GHQよりマイクロウェーブ関連の研究を禁止される。
1946(昭和21)年7月逓信省再発足。
1947(昭和22)年6月東京・仙台間で超短波多重無線電話回線が開通。
1947(昭和22)年9月カスリーン台風で関東と東北の有線電信電話回線網が甚大な被害。東京・仙台間は超短波回線で通信が確保されGHQが評価。
1947(昭和22)年10月カスリーン台風での評価でGHQが指示し東京・仙台間の超短波回線の札幌延伸が決まり着工。
1948(昭和23)年2月東京・札幌間の超短波回線が完成。
1949(昭和24)年6月逓信省が郵政省と電気通信省に分離。
1951(昭和26)年6月新潟・秋田間で200MHz・FM方式による市外伝送路規格を満たす超短波多重無線電話回線が全国で初の開通。
1951(昭和26)年7月東京中央電話局・横須賀大楠山間で4000MHz帯のマイクロウェーブ中継試験を実施。
1952(昭和27)年8月電気通信省が廃止され日本電信電話公社に移行。
1952(昭和27)年12月NHKが東京・大阪間で4000MHzマイクロウェーブによるテレビプログラム回線を自営で設置。
1953(昭和28)年電電公社が東京・名古屋・大阪間のマイクロウェーブ回線を年内完成に向け着工。
1953(昭和28)年11月東京中央電話局・横須賀大楠山間で4000MHz帯回線を現用回線として使用開始(詳細不明だが1959年11月時点ではすでに廃止)。

 後に東海大学創設者となる松前重義や、電電公社総裁となる米澤滋、そして八木宇田アンテナで知られる宇田新太郎博士の名前も出てきて錚々たるメンツ勢ぞろいという感じだ。
 まずは主に東京以北の北海道・東北と信越方面からみていく。

【北東日本における超短波・極超短波電話回線図】

 先の年表にもあるとおりだが、超短波多重電話回線が世界で初めて実用化された石崎−当別や、市外伝送路規格を満たす超短波多重無線電話回線で国内第1号となった新潟−秋田などが開通している様子がみえる。
 北東国土軸の幹という視点でみると、東京側の幹の起点は埼玉県の岩槻だった。1972年の東北道の最初の開通区間も岩槻ICからだったという共通点が偶然ながら面白い。
 江古田(東京)−新潟−秋田の経路も準幹線という感じで北へ伸びているが、後のマイクロウェーブ伝送回線で秋田に向かう経路は仙台の国見無線中継所から分岐して山形経由というのが最初で、日本海沿いに新潟−酒田のミッシングリンクが解消されるのは1967(昭和42)年だったのを思えば、超短波での開通は早かったように思う。

電電公社VHF UHF回線 S28 北東日本
【電電公社超短波・極超短波電話回線図(北東日本・1953年)】

 無線伝搬路としてみると江古田−横手−弥彦や、折爪−釜臥−笹山などの長距離ぶりが興味深い。

 江古田−横手は後に長野県のケーブルテレビ局が長野県内各地の山にアンテナを置いて東京タワーから飛来するキー局のVHF波を受信していたのを思えば、電電公社の超短波無線も伝搬可能だろうことは想像できる。
 それにしても後のマイクロウェーブ伝送回線でも東京から新潟の間は高指、赤城、横手、薬師、米山(反射板)、小木城の無線中継所を介していたわけで、昭和20年代の超短波回線の長距離伝搬っぷりには驚く。
 下北半島・釜臥から北海道に渡っていく先も対岸の渡島(亀田)半島や胆振方面ではなく日高の笹山というのも、札幌に中継1回で通る位置を選んだのだろうと理解できるが凄い。

釜臥山−笹山
【釜臥無線中継所−笹山無線中継所 伝搬路地形断面図】

 まあ、後に電電公社がマイクロウェーブ回線を沖縄の先島まで伸ばす際、沖縄本島−宮古島間に採用した対流圏散乱伝搬方式とか、宮古島−石垣島間に採用した球面回折伝搬方式とかのOH(Over Horizon)方式に比べれば、逓信省のそれは長距離とはいえ見通し内通信すなわちLS(Line of Sight)方式であり、地形断面図をみているとだいぶ素直だなあとは思う。

 北東日本の締めに、津軽海峡に世界初の超短波多重無線電話が生まれた昭和15(1940)年の開通式典の際、田倉八郎仙台逓信局長が俳句を詠み、遠藤後一札幌逓信局長が返歌を交わした記録が日本電信電話公社東北電気通信局(1964)「東北電信電話史資料 昭和後期時代における東北地方の無線のすがた(その一)」に残されているので紹介したい。

 ─春の海
   渡島も近く
    隔てなし
         (田倉八郎)

 ─波たたみ
   津軽海峡
    暖かし
         (遠藤後一)
  

 なんとも粋ではないか。
 俳句に造詣の深い人なら遠藤後一と聞いてピンと来る人もいるだろうと思うが、岩手県前沢町出身の俳人としても知られる遠藤梧逸のことである。宮城県の旧制仙台第二中学(現・仙台二高)から東京帝大法科を経て逓信官僚になり、退官後は東北電力の前身・東北配電の社長を務めた人物である。
 電波と津軽海峡の海の波を掛けて「波たたみ」と詠むあたり、プレバトを見てる程度の私のにわか知識でも上手い俳句だと思う。当時の最新技術による革新的な出来事を、田倉八郎と遠藤後一が俳句で後世に残すという行動が何とも風流である。

【南西日本における超短波・極超短波電話回線図】

 北東日本の方でも津軽海峡や越佐海峡の回線など、海峡を越える区間への超短波回線の設置が見られていたが、西南日本もまた島嶼の多い地域となる。
 先の年表の通り、津軽海峡での超短波回線の実用化から約半年後には瀬戸内海の今治−魚島間でも開通しているし、伊豆諸島や隠岐、五島列島、大隅諸島への回線も開通していた。
 海底線の障害発生時の復旧にかかる時間や労力の負担が大きいのに対し、無線の手軽さが評価された時代であったのである。

電電公社VHF UHF回線 S28 南西日本
【電電公社超短波・極超短波電話回線図(西南日本・1953年)】

 無線伝搬路の長距離っぷりをみると六甲−常山−竜岡や、祖生−大根地−老岳など西南日本の方も負けていない。

 六甲−常山は、黎明期の山陽放送(RSK)が、電電公社マイクロ回線が来ないなら生駒山の大阪テレビ放送(OTV)を岡山で受信して対応するという方針を決めていたくらいなので、六甲からも通るんだろうという気はする。常山−竜岡も、今治CATVがテレビせとうち(TSC)を受信しているくらいなのだから通るのだろう。
 
 しかし山口県でも東部の祖生から福岡県飯塚市南部の大根地まで通るとか、さらに大根地から天草の老岳に通るというのは意外だった。逓信省の超短波無線中継所の位置と地デジの中継局の位置が必ずしも同じではないし、同一周波数の混信もあるから一概には言えないが、今でも山の上のロケーションが良い場所同士なら、山口東部や天草で福岡のテレビ放送を遠距離受信というのもあるのだろう。

 そして気になるのは4000MHz回線が東京と大阪間にあって、後の電電公社マイクロウェーブ伝送回線の東名阪幹線と同経路であること。

粟ケ岳無線中継所
【粟ケ岳無線中継所(日本電信電話公社施設局 編(1954)「電気通信施設 6(1)」より転載)】

 出典とした「日本電信電話公社二十五年史 別巻」に収録の超短波・極超短波方式経路図(昭28)の方ではMHz(メガヘルツ)表記ではなくMc(メガサイクル)表記であるが、いずれにせよ4000MHzは超短波どころか極超短波の上限(=3GHz)を越えている周波数である。しかも電電公社マイクロウェーブ伝送回線の東名阪幹線の供用開始は1954(昭和29)年4月のはず。

 なぜ「日本電信電話公社二十五年史 別巻」に、昭和28年現在のものとして昭和29年供用開始のマイクロ東名阪幹線にあたる区間が掲載されたのかは、推測の域を出ないが正力マイクロ波事件との関わりがあるのではないか。

 日本民間放送連盟が1961年に発行した「民間放送十年史」の82〜84頁の「マイクロ問題と全国割り当て」の項が興味深く、正力マイクロ構想に対して「当時、政府や電電公社はマイクロ建設について計画らしいものをもたなかった。この問題の本格的具体化がはじまる動因をつくったのは、正力氏のマイクロ構想である。」と政府と電電公社の当時の実情を批判的に書いている。
 実際に「日本無線史」や電電公社の関連書籍を読んでみれば、民放連が批判したような「計画らしいものをもたなかった。」こともないと思うのだが、正力マイクロが電電公社のマイクロ伝送網建設推進に発破をかけたというのは間違っていないように思う。

民間放送十年史表紙
【民間放送十年史】

 林新二がコロナ社から1957年に出版した「マイクロウェーブ通信方式」に寄稿された米澤滋の述懐によれば「昭和27年8月、日本電信電話公社の発足と共に、公社総裁である梶井剛博士の指示により、急速に東京−大阪間にマイクロウェーブ多重電話回線を建設することになった。」とあり、日本電信電話公社運用局管理課が1953年12月に発行した「電気通信業務研究 (47)」の30頁で、電電公社技師長室調査課の廻健三は「東京−名古屋−大阪間にマイクロウェーブ回線を設置する予定で目下鋭意工事の進捗に努力しつつあるから、本年度中に開通の見込である。」と書いている。
 そして、先述の「民間放送十年史」によれば「二十九年二月中旬には電電公社の東京 大阪間のマイクロ施設二回線が完成した」とあり、昭和29(=1954)年2月─すなわち昭和28年度には東京−名古屋−大阪間の4000MHz回線が放送局向けに供用されたことがわかる。

 つまり電電公社としては正式には1954(昭和29)年4月がマイクロウェーブ伝送回線の東名阪幹線開通時期であるが、実際には1953年度─つまり昭和28年度となる1954年2月には回線設備自体は完成していてテレビ回線用に暫定的に運用されていたのだろうと考える。
 正力構想に対抗するため、暫定運用の状態でも回線が完成したから超短波・極超短波方式経路図(昭28)に載せた、ということではないかと推測する。

大手―大楠
【電電公社超短波・極超短波電話回線図(東京付近・1953年)】

 それから、気になるのは電電公社マイクロウェーブ伝送回線の方には存在しない区間として、東京の大手と、横須賀の大楠を結ぶ4000MHzの回線だが、これは日本電信電話公社施設局 編(1959)「電気通信施設 11(10)」の44頁によれば、「1951年4000Mc23通話路PPM-AM方式を試作し、東京−横須賀(大楠山)間.約50km区間において7月から12月に亘って実用化試験を行ない、下って1953年11月からこれを実用回線として使用したのが最初のものである。(現在は廃止された)」ということで、これまた短期間だけ存在した回線を示す貴重な図面なのだろう。

 かくして、昭和の戦中〜戦後まもなくの20年弱、マイクロウェーブ伝送回線が普及する前の逓信省と電電公社の超短波・極超短波無線電話回線網が存在したのであるが、この時期の逓信省・電電公社内部の“無線派”と“有線派”の趨勢に絡めてみると理解はしやすくなるように思う。
 四国電気通信局(1973)「四国電信電話事業史 : 公社発足20年」の202頁の記述が簡潔に的を射ているように思うので引用したい。

 戦災による通信のまひ状態を打開するため、無線伝送路の強化策がとられ、27年公社発足時には、短波による国内無線の幹線として(中略)8ルート、超短波では(中略)系12ルートとなっていた。しかし、その後有線による復興が進むにつれ、短波や超短波による無線通信は、取りたてるほどの拡充がないばかりか、一時的にはむしろ停滞気味とさえなった。すなわち、大阪〜福岡間超短波回線は山陽マイクロルートへ収容替えされ、同じく今治〜魚島間超短波回線も海底ケーブル化され、また大阪〜高知間短波回線は、豊浜〜高知間の無装荷ケーブル敷設に伴い搬送回線化されるなどの状況であった。
 このような状況の中で、28年2月東京ではじめてテレビ放送が開始されてからは、全国中継網の需要が急激に高まり、これに応じて作成されたマイクロウェーブ方式が、沈滞ムードの無線通信に新風の気をよみがえらせる役割を演じた。

 主要島嶼と離島間の海峡通信の実現と、戦災によって壊滅した有線通信網を補完する使命を持って普及したが、有線の復興によって停滞し、その後のテレビ回線普及の要請で誕生したマイクロウェーブ伝送回線に置換されたというのが、逓信省と電電公社の超短波無線電話回線なのであろう。

 超短波無線電話回線は役目を終えて半世紀以上は過ぎたが、逓信省や電電公社が切り開いたマウンテントップ方式というシステムは電電公社マイクロ網に引き継がれたのみならず、地デジの送信所や携帯電話の基地局の位置として現役の所もあり、現代の生活にも息づいているのである。

◆引用文献・参考文献・ウェブサイト

・四国電気通信局(1973)「四国電信電話事業史 : 公社発足20年」
・電波監理委員会 編(1950)「日本無線史 第1巻」
・日本電信電話公社運用局管理課(1953)「電気通信業務研究 (47)」
・日本電信電話公社施設局 編(1959)「電気通信施設 11(10)」
・日本電信電話公社東北電気通信局(1964)「東北電信電話史資料 昭和後期時代における東北地方の無線のすがた(その一)」
・日本電信電話公社東北電気通信局編(1982)「東北の電信電話 公社30周年」
・日本電信電話公社二十五年史編集委員会(1978)「日本電信電話公社二十五年史 別巻」
・日本電信電話公社福岡無線通信部(1984)「九州無線史」
・日本民間放送連盟(1961)「民間放送十年史」
・林新二(1957)「マイクロウェーブ通信方式」
・北海道電気通信局 編(1964)「北海道の電信電話史」



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