大鉢流山というのが縣境の山である。六二五辰猟磴せ海世、非常に高く感ずる。背後に連なる山脈が奥深いので威圧を受ける故であろう。
この山裾が日本海に飛び出ている処が、須郷岬である。山脈が勢い余って軀を海に突っ込んだのである。
地理的にも、歴史的にも、ここが津軽、秋田の境界だというのだから、関所があって然るべきだった。
だが、関所はない。置かなかった。
ただ、三件の家が部落といわれ残っている。
「板貝」と呼ぶ。藩政時代以前から三軒だというから、三百年以上同じ状態だった。三軒は同じ血筋の人たちである。
この山裾が日本海に飛び出ている処が、須郷岬である。山脈が勢い余って軀を海に突っ込んだのである。
地理的にも、歴史的にも、ここが津軽、秋田の境界だというのだから、関所があって然るべきだった。
だが、関所はない。置かなかった。
ただ、三件の家が部落といわれ残っている。
「板貝」と呼ぶ。藩政時代以前から三軒だというから、三百年以上同じ状態だった。三軒は同じ血筋の人たちである。
小沼幹止作「北の潮騒 続 4 蒼海の巌湖城」より
上記の文章は青森放送(RAB)などで1980年代まで活躍した小沼幹止が小説「北の潮騒 続 4 蒼海の巌湖城」で、青森・秋田県境の板貝を描写した一節である。
板貝は現在の行政区分では西津軽郡深浦町大字大間越字筧という住所表記となり、正式な行政地名としては廃止されている。ただ、国土地理院の地形図にも板貝の名は残る。
もともと所属していた西津軽郡岩崎村は日本海に面した青森県最南西端の村で、幾度か大火に見舞われてきた。1987(昭和62)年に刊行された「岩崎村史 上巻」の巻頭で村長の堀内辰悦は大火で歴史的な文献の多くが焼失した岩崎村の実情を紹介し、あとがきでは村史編集委員長・脇本幸之進が同じ西津軽郡の鰺ヶ沢町や深浦町、秋田県山本郡八森町など近隣自治体の関係者からの資料提供に賛辞を述べている。
近隣町村の歴史書物はいいのだが、「岩崎村史」は参考文献に今日では偽書という評価が確定している和田喜八郎の「東日流外三郡誌」が挙げられているのが痛い。
小沼幹止の小説の題名にある巌湖城も、「岩崎村史 上巻」49頁によれば1390(明徳元)年に小鹿相川城主安東太郎鹿季によって築城されたとあるが、参考文献が偽書「東日流外三郡誌」では話にならない。
しかし、小沼幹止による板貝の地理的な描写は、現在の景観とも概ね一致しているように思う。今も板貝の家の数は3軒前後である。国道101号沿いの食堂・福寿草や、小屋も含めればもう少し棟数は増えそうだが、県境の海岸の急崖下にへばりつく板貝の描写としては小沼幹止の文章は現在でも通用するのではないか。
そして、小沼幹止の小説にある通り、板貝に関所が無かったのも事実である。弘前藩と秋田藩の関所は、板貝から深浦方に位置する大間越にあった。
板貝の須郷岬を津軽と秋田の境界とした経緯について、「岩崎村史 上巻」が採用した参考文献は秋田藩佐竹家の「国典類抄」「梅津政景日記」なので信頼性があるものである。それでも偽書「東日流外三郡誌」に基づいた巌湖城なる単語も出てくるのが悩ましいところである。どこまでが信頼できる情報で、どこからが偽書による偽情報なのか区別しながら「岩崎村史」を読み解くのは難しい。とりあえず、元々は安東領だった津軽を侵略した南部氏と安東氏(秋田氏)は折り合いが悪く、南部から独立した津軽氏との関係も決して良好ではなかったらしい。
とはいえ南部という共通の敵を持つ関係であるから、安東は津軽と手を組んで南部から比内を奪還した後、津軽が領有していた白沢以北矢立以南(今の大館市北部)を安東に返還、安東は深浦以西を津軽に割譲した──というのは本当らしい。
しかし津軽氏と安東(秋田)氏の間で深浦方面の境界がどこなのかは曖昧だったのだろう。津軽と秋田の境界を板貝の須郷岬と確定する作業は津軽氏と安東(秋田)氏の間では行われず、国替えで常陸から佐竹氏が秋田に転封されてからのようだ。「岩崎村史 上巻」によれば津軽藩の記録では1603(慶長8)年とも、秋田藩の記録では1618(元和4)年ともいうらしい。
日本海から強く吹きつける西風の象徴ともいえるように、須郷岬に続く板貝海岸の岩場の松は陸側に向かって斜めに立つ。須郷岬を回って秋田領側の集落は岩館であるが、関所が置かれたのは深浦方の大間越である。板貝は津軽領なのに、関所を通らず行き来できたのは秋田藩方面という不思議な位置にあった。
弘前市に本社を置く地方紙・陸奥新報社が1960(昭和35)年に刊行した「新津軽風土記」によれば、板貝はもと人家2戸の“大字”だったといい、板貝から一つ深浦方にある木蓮寺とともに全国最小級の部落と呼ばれたこともあるらしい(ただし大正六年大日本帝國陸地測量部作成五万分の一地形図に木蓮寺の記載はあるが、板貝の記載はない)。
板貝の北隣の木蓮寺集落も「新津軽風土記」によれば元々同名の寺があり、秋田の殿様の側室の隠棲所だったとも伝えられているという。巌湖城は和田喜八郎の創作にしても、木蓮寺という寺は実在したのかもしれない。和田喜八郎の偽書「東日流外三郡誌」より古く、戦前に岩崎で歌われた「岩崎名所小唄」の歌詞には「〽登り下りの曲り道 ひゞくは風かはた浪か こゝは日蓮聖人の法の教への木蓮寺」とあり、日蓮宗と何らかの関わりを示す伝承はあったのだろう。
関所が藩境より北の大間越にあったということは、大間越以南の木蓮寺や板貝では藩を越えた自由な往来が制限された藩政時代から相当程度、秋田との交流があったことに繋がるのだろう。
青森県教育庁が1958(昭和33)年に発行した「教育こうほう六月号」冒頭の「県境の教育をたずねて」という社会教育主事・長尾文武の探訪記が非常に貴重な記録であるので紹介したい。長尾の「県境の教育をたずねて」によれば、深浦駅始発列車に乗って弘前方面へ向かう高校生が比較的男性的で、東能代方面に向かう高校生は女性的とし、「秋田〜能代と弘前〜五所川原の二つの文化的潮流が、この深浦で渦を巻いている」と表現している。深浦駅の売店で手にした新聞朝刊も青森県紙・東奥日報ではなく秋田県紙の秋田魁新報だったとし、1958年当時は深浦でも秋田圏の文化が残っていたのであろう。
深浦から能代商業高校に通う女子高生との会話を経て、岩崎の大間越に到着したあとの記録も興味深い。長尾は「いちばん変つているのは、なんとしてもことばである。秋田弁コなのである。」とし、秋田弁特有の語尾の「シヤ」の存在、津軽弁の語尾の特徴の「コ」の無しなど具体例を示し、大間越地区の方言は津軽弁ではなく秋田弁であることを詳しく記録している。
長尾の「県境の教育をたずねて」が凄いのは、教育関係以外にも大間越や黒崎など岩崎南部の通婚範囲など生活一般についての記録も残していることである。大間越地区の通婚範囲は主として八森や能代など秋田方面であり、深浦方面はほとんど無いということも記録し、実際に秋田から大間越に嫁入りした保護者との会話も記録している。
大間越小学校の校歌を作曲したのも秋田県八森の岩館小中学校長の柴田源太郎氏であるとし、両校お互いに県境を越え参観視察をしているという。
関所が大間越にあったことで、大間越や木蓮寺、板貝はやはり津軽領でありながら秋田領同然の生活圏となり、それは戦後の1950年代末でも色濃く残っていたということである。今日ではさすがに能代の高校に通うというのは旧岩崎村でなければ多くないが、1960年頃だと深浦でも能代指向の進学傾向が残っていたというから、影響力として津軽より秋田が卓越する状況だったのだろう。祭りでも、今や津軽一円に広がるネブタ・ネプタではなく、岩崎には鹿島船の風習が残っているのも秋田圏の影響の強さであろう。
ちなみに大間越地区にテレビ電波が最初に届いたのは最速でも1959(昭和34)年12月のNHK秋田(JOUK)か1960(昭和35)年4月の秋田放送(ABS)の開局以降と思われるが、岩崎村史に詳しい記録はない。ただし、長尾の「県境の教育をたずねて」には1958(昭和33)年時点の大間越のラジオ受信事情が記録されている。
1958年時点で、大間越で聴取されていた局は新潟放送である。
RABラジオや函館の北海道放送(HBC)が岩木山や白神などの山々に遮られ届かないのは地形的にも明らかだろうが、秋田のラジオ東北(RTB・現在のABS秋田放送)でもなく山形を飛び越えてBSNを聴いていたというから驚きだ。
大間越小学校長の寺沢から新潟放送ラジオの件を聞いた長尾は「ふだんはいいが一番困るのは選挙のとき、県内候補者の政見発表を聞けないことだそうであるが、もつともなことである。」と記録している。
1997年の小山内豊彦著「眠れるメディア“テレビ”─青森から考える地域密着チャンネル」には、北海道の放送に慣れ親しむ下北地方の子供たちにとって知事と言えば青森県知事の北村正哉や木村守男ではなく横路孝弘・北海道知事、という趣旨のエピソードが紹介されているが、ラジオとはいえ岩崎で新潟波受信というスケールの大きさは、下北の北海道受信を凌駕していると言えるだろう。
「津軽の最果てを見に行く」と題したシリーズ第1回の浅瀬石川上流域では、津軽氏の独立後に南部領との街道往来が途絶し茶屋や宿、掛け小屋などが消滅した切明(旧平賀町)の例を取り上げたが、関所の外にあって秋田との往来が藩政時代を通じて継続した板貝や大間越の場合は対照的である。
板貝に宿や茶屋といった街道筋の商業集積はほとんど無かったと思われるが、関所のあった大間越には町奉行所も置かれたという。弘前・黒石から浅瀬石川上流への南部間道は藩政時代に事実上の行き止まり道になってしまったが、鰺ヶ沢から秋田に通ずる西浜街道は関所こそあれど往来があったのだから、行き止まりではない“生きた道”だったのである。板貝は江戸時代から今日まで集落として変わらず生きているのである。
浅瀬石川上流域の善光寺平では県外の放送の受信は叶わなかったが、板貝は電波もやすやすと越境していることを確かめることが出来た。
民放4系列(ABS、AKT、AAB、ATV)安定受信成功。
受信実験は福寿草の駐車場で実施した(迷惑料として焼きイカ1,200円を購入)。A-PABのエリアのめやすでも、板貝まで岩崎局のエリアだと明示されているので青森波の受信は問題ないだろうと踏んでいたが、エリア外のはずの秋田局も驚くほどの好成績で入ってきた。
もしかして県内唯一の見通し内伝搬(電電公社マイクロ回線風にいえばLS=Line of Sight方式)が成立するのだろうかと思ったが、地形分析をした結果は板貝の福寿草でも山岳回折伝搬(電電公社マイクロ回線風にいえばOH=Over Horizon方式)である。回折点は、能代市の浅内沼南西の黒岡集落近傍の62.3m高地(三角点のある山)である。地形図を見ると、大森山からの電波到来方向が急峻な崖になっていて、ナイフエッジ効果が強く出そうな地形である(そして、62.3m高地の航空写真からNTTっぽい八角形のステージを持つ鉄塔も見つけてしまった……)。
goo辞書によれば、「最果て」の意味は「これより先はないという端。特に、陸地や国の中央から最も離れた所。」である。平賀の善光寺平も、岩崎の板貝も、津軽の最果ての集落である。板貝の先に津軽の集落は無い。
中央からみれば最果ての地であろうが、青森県教育庁の長尾文武が「県境の教育をたずねて」で、大間越や板貝を指して「青森からみれば遠隔のへき地であろうが、別の見方からすれば、むしろ文化の高いところであるかも知れない。いろいろな方面との交流がなされている地域である。」と評したように、テレビのチャンネル数は深浦や弘前、能代や秋田より板貝の方が高位である。
1994年の中日×巨人10.8決戦のときも、板貝の人々は蚊帳の外に置かれることなく長嶋茂雄のいう「国民的行事」をテレビを通じて堪能できたのである。
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