青森県にはフジテレビ系列局が存在しないが、太平洋側の八戸市や十和田市、三沢市や遠く下北半島のむつ市の一部でも岩手めんこいテレビ(MIT)が受信でき、同局によれば青森県の187,034世帯(カバレッジ35.8%)がエリアだとされる。
青森県民の3人に1人はめんこいテレビ経由でフジ系を視聴可能であるということで、今日では県紙・東奥日報のテレビ欄にも同局が地元局同然にフルサイズ掲載されているが、なぜこれほど青森県の広範囲でMITが受信されているかと言えば、岩手県二戸市と九戸村に跨る折爪岳(標高852m)に所在する二戸中継局の送信条件が極めて良いことによるものである。
電電公社の超短波多重無線電話回線の時代から、折爪岳の折爪無線中継所は岩手県最北の無線中継所として下北郡大湊町(現むつ市)の釜臥無線中継所まで回線を結び、マイクロウェーブ伝送回線の時代になってからも上北郡東北町の甲地無線中継所と回線で繋がっていた時期がある。
全国を事業区域とする電電公社(NTT)の回線ならともかく、事業区域が放送法で県域に制限される民間放送事業者や免許監督官庁の郵政省(現総務省)にしてみれば、折爪岳という存在は少々厄介な存在である。

【折爪岳の二戸中継局ほか無線鉄塔群(岩手県二戸市)】
むつ市でも受信できてしまうのは何もMITに限った話ではなく他の岩手県の放送局にも共通していて、歴史を遡れば最初に開局したアイビーシー岩手放送(IBC)までたどり着く。
青森放送(RAB)は1980(昭和55)年に発行した「青森放送二十五年史」で「折爪問題」と小題をつけ見開き2頁にわたって経緯を記録している。少々長くなるが、前段の中題「一一 テレビの難視聴解消」と「八戸テレビ局開局」を含め一部引用する。
要約すると、RABは八戸中継局を県境の階上岳(標高740m)に置きたかったが、福岡中継局を折爪岳(標高852m)に置局申請する岩手側への抑止効果が大きいという郵政省東北電監免許部長の説明を受け、NHK青森(JOTG)に合わせて天魔平を選んだというものである。
RAB八戸局は1960(昭和35)年9月に正式に放送を開始し、9月20日には八戸市民会館で開局記念式典が行われ、八戸市長の岩岡徳兵衛のほか衆議院議員の夏堀源三郎と三浦一雄が出席、郵政省関係者では郵政大臣代理と仙台の電監局長も来八した。

【旧RAB八戸局(天魔平・旧三戸郡福地村)】
RAB八戸局の放送開始からおよそ半年後、郵政省は岩手県の福岡地区──旧二戸郡福岡町すなわち今の二戸市にあたる地区にもテレビ周波数を割当する。
RABが八戸局の位置を天魔平にすれば、福岡局を折爪岳に置局申請する岩手側への抑止効果が大きいとした郵政省東北電監免許部長の説明は裏切られた形になったことが判明し、件の「折爪問題」の社史記載に繋がる。これは中略せず引用する。
RABは相手の具体的な社名こそ記載していないが、IBCを指していることは明白だ。「民放開設以来の県域放送という、放送局免許条件の基本問題」という形の言及からNHK盛岡(JOQG)ではないし、1961(昭和36)年当時に存在した岩手の民放はIBCしかない。
一方でIBCのエリアが「県南全域はもちろん、下北半島にまで及ぶことになる」折爪岳への周波数割当は慎重を期すよう請願した相手の名前は、「鈴木郵政大臣」と出てくる。
鈴木郵政大臣とは、後の首相・鈴木善幸(岩手選出)。
郵政省東北電監免許部長が言った抑止効果もなく、公聴会での要望もほぼ通らず、やむなく妥協案を結んだが「実際には青森県側にアンテナ・エレメントがついていた」というRABにとって不本意な結末を招いたものは何だったのか。

【旧国道4号青岩橋(三戸郡三戸町)にあった福岡表記】
「折爪問題」の発生から約40年の時を経て、東名阪3大都市圏で地デジが開始された2003(平成15)年にIBCが発行した社史「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」を読んでみよう。
IBCは「もう旧聞だから」の書き出しで「青森放送二十五年史」を引用しつつ、西崎東北電監局長が折爪岳を「絶好の地」と評価したことを明記しており、RABに対し郵政省東北電監免許部長が言った「抑止効果」とは相容れない評価である。郵政省東北電監とは免許を与える立場にありながら、まさか相手がRABかIBCかで判断基準を変えるような組織だったのだろうか。
折爪問題に触れたIBC側の資料は概ね引用した範囲で、RABの「青森放送二十五年史」を覆すような事実の提示も反論もない。「青森放送二十五年史」を引用しながら「実際には青森県側にアンテナ・エレメントがついていた」という部分を削除した理由はわからない。「もう旧聞だから」には何か含みがありそうな気もするが、こちらもわからない。

【舘鼻公園から遠望する冬の八戸都心】
ともかく日本テレビ放送網(NTV)系列のRABとは番組編成が異なる東京放送(TBS)系列のIBCは、八戸市では非常に歓迎された。IBC福岡局が正式に開局した1961(昭和36)年10月15日といえば、宮城でもまだ仙台放送(OX)が開局しておらず、八戸は当時の東北6県では希少なNTV系列とTBS系列の両方が視聴可能な都市となったのである。青函圏もRAB青森局と北海道放送(HBC)函館局の2波を視聴できたが、海峡側を除けば「雨降りテレビ」と揶揄される画質だったのを思えば、鮮明な受像状態でRABとIBCが視聴できた当時の八戸は、函館や青森どころか仙台をも凌駕する札幌大都市圏と同等の民放チャンネル数を誇る先進地に躍り出たのである。
熱狂したのは八戸市民ばかりでなく、IBCも一戸町から県境を越えた戦勝パレードさながらの開局記念パレードを八戸まで行い、八戸と福岡の2か所で開局披露パーティーを実施した。「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」から当該部分を引用する。
10月24日に八戸で開催し「翌21日」に福岡(二戸)で開催という時系列の表現は引用元の原文ママだが、それよりも来賓の郵政省関係者の対応に着目したい。
八戸のIBCのパーティーには郵政省関係者は来ておらず、福岡(二戸)には仙台の電監局長は来たが、RAB八戸局の開局記念式典に来た郵政大臣代理は来なかった。
一方で、福岡(二戸)にはすでに郵政大臣ではなくなっていた鈴木善幸が来た。

【旧郵政省本庁舎跡(東京都千代田区霞が関)】
無論、郵政省の大臣はもとより事務次官以下の官僚も多忙であるから、どうしても予定が合わず八戸にも福岡(二戸)にも来れなかっただけなのかもしれないが、もしかすると郵政省本省(霞が関)は意図的にIBCの式典に人を出さなかった可能性があるのではないか。
1986(昭和61)年に塩瀬豊が著した「郵政省の逆襲」によれば、民放局に対して郵政省側が応対する役職級の慣例のようなものがあり、霞が関の場合は「地方民放局の東京支社長級ならば、課長補佐か係長が当たり、地方局の社長クラスには課長か部長、在京キー局の社長は部長か局長、大臣が会うのは、民放連会長かNHKの会長」という序列があるという。RABだろうとIBCだろうと、たとえ社長が上京しても会える郵政官僚は本省の課長級か部長級ということだが、部長級が対応してくれるのは大阪の準キー局や名古屋、福岡、札幌などの基幹地域の有力局で、RABもIBCも郵政省側のカウンターパートは課長級が関の山だったのではないか。
1986(昭和61)年と、IBC福岡局が開局した1961(昭和36)年では四半世紀の差があるため、塩瀬豊の著書の指摘を額面通り受け取ってよいとも思えないが、RAB八戸局の開局式典には仙台の東北電監局長のみならず霞が関の本省からも郵政大臣代理が来たのは若干“破格”の対応といえるかもしれず、逆にIBC福岡局の方は仙台の出先から電監局長を福岡(二戸)に出して終わり・八戸には誰も出さないという形で、郵政省本省は青森と岩手で意図的に対応に差をつけたのではないか。
これは「折爪問題」で抗議を受けたRABの顔を立てただけとも思えず、郵政省本省の官僚もIBC優位に進んだ結末が不本意だったからではないのか。それも、RABが言う「民放開設以来の県域放送という、放送局免許条件の基本問題にかかわる重大な変更」がねじ曲げられたなどという綺麗事でもない気がする。

【IBC本社(盛岡市志家町)】
IBCが福岡局を折爪岳へ置局する申請を通した時の郵政大臣は前述の通り鈴木善幸であるが、「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」に記載されている1953(昭和28)年7月3日開催の設立準備説明会(岩手県東京事務所で開催)の記録をみると、ラジオ開局前の時点で出席者に鈴木善幸の名前がある(余談ながら後にMITの開局に関与する小沢一郎の父・小沢佐重喜の名もある)。
何なら、既に局舎は取り壊されてしまったが、アナログ放送時代のIBC福岡局舎には鈴木善幸が揮毫した局名板も嵌っていた。テレビに限らず、電電公社のマイクロ回線局舎を含めても郵政大臣が揮毫した局名板を持つ無線局舎も珍しく、IBCと鈴木善幸の蜜月ぶりを示すものではないかと思われる。
IBCは1991(平成3)年に、元岩手日報政治部次長で富士大学教授の七宮�篁阿鯤垢�手に放送したラジオ番組「岩手の昭和史」の一部内容をまとめた書籍「元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証」を発行している。この中に、気になる一節があるので引用する。
鈴木善幸は具体的な事例こそ挙げていないが、郵政大臣時代に今道潤三TBS社長の相談にあずかり民放連を牛耳ったとか、民放の問題にいろいろ相談にあずかったと発言していたのだ。
郵政省の官僚が作成した周波数割当計画などにも、鈴木善幸が郵政大臣の立場で介入したこともあったのではないか。それ自体は大臣の権限で問題ないにせよ、地方局の社長だろうと課長級が応対する慣習の郵政省である。現場の郵政官僚が考えた案に、頭ごなしに否定的に介入する大臣の差配に内心不満を抱くこともあっただろうし、ましてやこれまで課長級があしらっていた太田俊穂IBC社長が民放連の理事として今道潤三の名代で乗り込んで来ようものなら部長・局長級が相手をしなければならず、郵政官僚たちも心中穏やかだったとは思えない。
そうした積み重ねが、鈴木善幸と蜜月のIBC福岡局の開局記念パーティーに郵政省本省から来賓を出さないという報復のような結果となってもおかしくないのではないか。
郵政大臣までやった鈴木善幸と郵政省の折り合いが良くないとは信じがたいかもしれないが、1994(平成6)年に「郵政省解体論」で郵政省利権を批判した小泉純一郎が「利権に与ったのが、その後の角栄人脈、つまり竹下登、金丸信であり、小沢一郎」と名指しする中で鈴木善幸の名前はない(解体を唱え実行した小泉純一郎も郵政相経験者である)。電電公社を痛烈に批判した郡司和夫(1981)「電電公社・悪の構図」でも鈴木善幸は「足場のない」状態であったとしており、鈴木善幸と郵政省との関係はそれほど深くなかったのであろう。

【RAB本社(青森市)】
もう一つIBCと鈴木善幸とRABにも絡んで「折爪問題」をややこしくしそうなのは当時の民放連会長でTBS社長・今道潤三。
「青森放送二十五年史」によれば「KRT(筆者注:TBSのこと)番組のネット関係収入については足立ラジオ東京社長と当社担当幹部との会談で、概要の方向を合意していたにもかかわらず、スタート直前に示されたKRTの案が概要合意案と相違し、当社の予定より月額約一,〇〇〇万円も少なかったため」、RABは当初予定のTBS系加盟を土壇場で白紙に戻しNTV系加盟を決めた歴史があり、逆にTBSサイドも青木貞伸(1981)「日本の民放ネットワーク JNNの軌跡」によれば「ラジオ東京常務だった今道潤三氏(故人)は青森放送側の『ラジオ東京では、どの程度の営業数字を保証してくれるのか』という要請に対して、『うちでは番組面での協力はするが、売上げの保証をするようなことはしない。これ以上、あなたたちはラジオ東京に何を期待しようというのですか』という表現を使っていた──と当時の関係者は証言している。」と、RABと今道潤三TBSの関係性は非常に後ろ向きであったことがわかっている。

【1965年度の北海道東北TV局の営業収入高】
一方、ほぼ同じ時期にIBCが系列選択で揉めた相手は正力松太郎率いるNTV。過去記事「ABSは本当にTBS系を希望したのだろうか?」で触れたとおりだが、IBCは後楽園球場の巨人戦ナイター中継を含めたNTV系番組のネットが不可能な事態に陥り、1965(昭和40)年当時はIBCは北日本7道県の民放テレビ9社で売上高最下位という不名誉な成績に低迷していた。
「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」によれば、助け船を出したのが今道潤三。NTVを受けられずTBSをネットするにも「スポンサーが諒解しないものあって難航した。ついには手当てのつかないものもあっ」た状況だったが、「『何ぼ計算違いか数字を出せ、検討しよう』と言ってくれた」のが今道潤三だという。
同じように相談に行ったRABとIBCで、今道潤三の物の言い方がずいぶん違うようにも思うが、鈴木善幸との信頼関係が厚かった結果なのだろう。

【盛岡駅と盛岡都心部】
現在では岩手県都・盛岡も中核市に指定されているが、昭和35年国勢調査(1960年)の人口10万人以上の市の人口ランキングをみると盛岡は157,441人で、174,348人を擁する八戸に負けていた。人口9万を擁した岩手第二都市の釜石も間もなく人口減少に転じる時期である。
「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」でも、「本県は地域広大で山岳も多く、ラジオ・テレビ共に多くの分局の設置が必要であり」と、面積第2位で人口密度最下位の岩手県で民放を経営する地理的な厳しさに触れている中で、IBCが折爪岳に福岡局を置くことは、盛岡よりも大きな都市・八戸をエリアに収めるという重大な意味があった。
IBCは「臨海工業都市として躍進する八戸市に営業拠点を置」くべく、福岡局の放送開始に先だって1961(昭和36)年9月1日に八戸市馬場町に八戸支社を置いた。
そしてこのIBC八戸支社は今道潤三にとっては、RABのテレビ開局直前のネット系列転換がなければ本来持てるはずだった青森県におけるJNNの報道拠点という意味をもつ。
1969(昭和44)年の青森テレビ(ATV)の開局とともに、IBCが担当するJNNの守備範囲から青森県は外れたが、1968(昭和43)年の十勝沖地震では最大の被災地・青森県の取材拠点になったのはIBC八戸支社である。
IBC福岡局の開局記念式典に本省から来賓を出さなかった郵政省の対応、当時のIBCの苦しく厳しい経済的事情、民放連会長にしてTBSトップの今道潤三とRABの対立──
これらの利害関係をみるに、本来は放送法や民放制度に鑑みて青森に電波を出しすぎぬ位置への周波数割当を進めた霞が関なり東北電監の郵政官僚に対し、今道潤三との信頼関係が厚い鈴木善幸が郵政大臣という強大な権限でIBC優位に差配した結果が「折爪問題」の根源なのではないか、というのが当ブログの予測である。

【釜臥山展望台から望むむつ市とむつ中継局】
なお、鈴木善幸という首相に上り詰める郵政大臣がいた岩手・IBCに対し、青森のRABは無策でやられっぱなしだったという訳でもなく、一矢報いる場面もあったのではないかと思われるのが、この後に行われるむつ(釜臥山)の周波数割当である。
当初郵政省はむつにUHF波を割当したが、RABは「Vの一〇チャンネルに変更の要望書を郵政省に提出」し、公聴会でも同様の趣旨を開陳した結果、RABむつ局はVHF10chでの免許を得ることに成功している。
福岡(二戸)の「折爪問題」では郵政大臣の鈴木善幸に押さえつけられて忸怩たる思いでいた郵政官僚の中には、むつでRABに借りを返せたと思う者もいたのかもしれない。
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青森県民の3人に1人はめんこいテレビ経由でフジ系を視聴可能であるということで、今日では県紙・東奥日報のテレビ欄にも同局が地元局同然にフルサイズ掲載されているが、なぜこれほど青森県の広範囲でMITが受信されているかと言えば、岩手県二戸市と九戸村に跨る折爪岳(標高852m)に所在する二戸中継局の送信条件が極めて良いことによるものである。
電電公社の超短波多重無線電話回線の時代から、折爪岳の折爪無線中継所は岩手県最北の無線中継所として下北郡大湊町(現むつ市)の釜臥無線中継所まで回線を結び、マイクロウェーブ伝送回線の時代になってからも上北郡東北町の甲地無線中継所と回線で繋がっていた時期がある。
全国を事業区域とする電電公社(NTT)の回線ならともかく、事業区域が放送法で県域に制限される民間放送事業者や免許監督官庁の郵政省(現総務省)にしてみれば、折爪岳という存在は少々厄介な存在である。

むつ市でも受信できてしまうのは何もMITに限った話ではなく他の岩手県の放送局にも共通していて、歴史を遡れば最初に開局したアイビーシー岩手放送(IBC)までたどり着く。
青森放送(RAB)は1980(昭和55)年に発行した「青森放送二十五年史」で「折爪問題」と小題をつけ見開き2頁にわたって経緯を記録している。少々長くなるが、前段の中題「一一 テレビの難視聴解消」と「八戸テレビ局開局」を含め一部引用する。
一一 テレビの難視聴解消
八戸テレビ局開局
八戸市にテレビ局を!という声が八戸市民からあがったのは昭和三十二年ごろからで、具体的には同年六月、同市総合振興会がテレビ局誘致委員会を組織して、市理事者、市議会とともに運動に立ち上がったのがきっかけである。
(中略)誘致運動の盛んな八戸方面の視聴状態は、最も肝心な八戸市内の中心部がノイズのためほとんど視聴不能、三戸方面は八戸市内より状態がわるく、また十和田市は場所によって辛うじて映像になる程度であった。このため当社も八戸方面にテレビ局を建設することを考え免許申請書作成にとりかかっていた。
送信所の候補地としては標高七四〇メートルの階上岳、一五二メートルの長下、一三九メートルの天魔平、九一メートルの市内高台の四か所が上げられた。階上岳はサービスエリアの点からは、七戸町以南の県南全域をカバーする好条件にあり、社内的には最有力候補地であった。ちょうどこのころ、岩手県のテレビ局が青森・岩手県境にある標高八五二メートルの折爪岳にテレビ・サテライト局を建設する方向で進められていたが、これとの対抗上からも階上岳でなければならなかった。ところが、NHKでは天魔平を候補地として地元福地村と道路建設の協力や建設敷地の話合いにはいり、村を挙げての歓迎のうちに最終決定の寸前にあった。これについては、たまたま、東北電波監理局の免許部長が来八した際、この候補地問題にふれて、両社が天魔平に同調すれば、もっか申請中の福岡局(折爪岳)に対して、抑止効果が大きいと説明、当局としても天魔平を暗にすすめる方向だった。この選択のよしあしについては、改めて後述しよう。(中略)
試験電波は九月十三日午後一時から(中略)発射され、電界強度の測定では、予想どおりの出力とパターンが得られ、(中略)電波監理局の検査が行なわれ、合格判定と同時に運用開始となった。サービスエリアは、八戸市・十和田市・三沢市・三戸郡の全域と、上北郡、岩手県二戸郡・九戸郡の一部で、放送区域内の世帯数は八万一,六一七世帯に及び、(中略)二十日には、開局を記念して午前十一時から市民会館で記念式典を行ない、郵政大臣代理、好川仙台電波監理局長、夏堀・三浦両代議士、岩岡八戸市長(中略)らの来賓を含め約二〇○名が出席、竹内社長の挨拶のほか、各方面から祝辞があり、午後零時三十分式を閉じた。
八戸テレビ局開局
八戸市にテレビ局を!という声が八戸市民からあがったのは昭和三十二年ごろからで、具体的には同年六月、同市総合振興会がテレビ局誘致委員会を組織して、市理事者、市議会とともに運動に立ち上がったのがきっかけである。
(中略)誘致運動の盛んな八戸方面の視聴状態は、最も肝心な八戸市内の中心部がノイズのためほとんど視聴不能、三戸方面は八戸市内より状態がわるく、また十和田市は場所によって辛うじて映像になる程度であった。このため当社も八戸方面にテレビ局を建設することを考え免許申請書作成にとりかかっていた。
送信所の候補地としては標高七四〇メートルの階上岳、一五二メートルの長下、一三九メートルの天魔平、九一メートルの市内高台の四か所が上げられた。階上岳はサービスエリアの点からは、七戸町以南の県南全域をカバーする好条件にあり、社内的には最有力候補地であった。ちょうどこのころ、岩手県のテレビ局が青森・岩手県境にある標高八五二メートルの折爪岳にテレビ・サテライト局を建設する方向で進められていたが、これとの対抗上からも階上岳でなければならなかった。ところが、NHKでは天魔平を候補地として地元福地村と道路建設の協力や建設敷地の話合いにはいり、村を挙げての歓迎のうちに最終決定の寸前にあった。これについては、たまたま、東北電波監理局の免許部長が来八した際、この候補地問題にふれて、両社が天魔平に同調すれば、もっか申請中の福岡局(折爪岳)に対して、抑止効果が大きいと説明、当局としても天魔平を暗にすすめる方向だった。この選択のよしあしについては、改めて後述しよう。(中略)
試験電波は九月十三日午後一時から(中略)発射され、電界強度の測定では、予想どおりの出力とパターンが得られ、(中略)電波監理局の検査が行なわれ、合格判定と同時に運用開始となった。サービスエリアは、八戸市・十和田市・三沢市・三戸郡の全域と、上北郡、岩手県二戸郡・九戸郡の一部で、放送区域内の世帯数は八万一,六一七世帯に及び、(中略)二十日には、開局を記念して午前十一時から市民会館で記念式典を行ない、郵政大臣代理、好川仙台電波監理局長、夏堀・三浦両代議士、岩岡八戸市長(中略)らの来賓を含め約二〇○名が出席、竹内社長の挨拶のほか、各方面から祝辞があり、午後零時三十分式を閉じた。
(青森放送(1980)「青森放送二十五年史」P251〜253)
要約すると、RABは八戸中継局を県境の階上岳(標高740m)に置きたかったが、福岡中継局を折爪岳(標高852m)に置局申請する岩手側への抑止効果が大きいという郵政省東北電監免許部長の説明を受け、NHK青森(JOTG)に合わせて天魔平を選んだというものである。
RAB八戸局は1960(昭和35)年9月に正式に放送を開始し、9月20日には八戸市民会館で開局記念式典が行われ、八戸市長の岩岡徳兵衛のほか衆議院議員の夏堀源三郎と三浦一雄が出席、郵政省関係者では郵政大臣代理と仙台の電監局長も来八した。

RAB八戸局の放送開始からおよそ半年後、郵政省は岩手県の福岡地区──旧二戸郡福岡町すなわち今の二戸市にあたる地区にもテレビ周波数を割当する。
RABが八戸局の位置を天魔平にすれば、福岡局を折爪岳に置局申請する岩手側への抑止効果が大きいとした郵政省東北電監免許部長の説明は裏切られた形になったことが判明し、件の「折爪問題」の社史記載に繋がる。これは中略せず引用する。
折爪問題
昭和三十六年三月二十七日、郵政省からテレビジョン放送用周波数の第二次割当計画表(案)が発表された。この割当案によると、当社が最も懸念した青森・岩手の県境にある標高八五二メートルの折爪岳に、八戸テレビ局とまったく同規模の福岡テレビジョン局が、岩手県側に置局されるようになっていた。無指向性でこれだけの規模の局が折爪にできるとなれば、まず第一に当社の八戸テレビ局の受信に混信して大きな妨害となる。また放送区域は、八戸テレビ局よりも広範囲となり、県南全域はもちろん、下北半島にまで及ぶことになる。これは当社が八戸テレビ局を建設するにあたって、送信地点として第一候補地とした七四〇メートルの階上岳を変更した経緯からも、とうてい認めるわけにはいかなかった。それは一企業の利害関係というよりは、民放開設以来の県域放送という、放送局免許条件の基本問題にかかわる重大な変更であった。この割当計画に対する公聴会は四月十日に利害関係者を集めて郵政省で行なわれ、当社からは小沼常務と戸村技術局長が出席して、つぎのような意見を開陳した。
「割当計画表(案)中の割当地区名福岡のh√GP(規模)は実情に添わないものであり、このため隣接する当社のサービスエリア内の視聴者に、混信障害が起こることが懸念されるので、つぎに示すような適当な値まで下げるか、影響のない技術的条件を十分加味されるようにされたい。(一)送信所設置場所は県境から少なくとも一五キロメートル以上離れ、しかも送信空中線海抜高は三〇〇メートル以下にされたい。(二)送信所設置場所が県境から一五キロメートル以内の場合で、しかも送信空中線海抜高が三〇〇メートル以上の場合は、つぎの三条件のうちのいずれかの処置をとられたい。(イ)h√GPは割当案の八三デシベルから一〇デシベル減少した七三デシベルとし、しかも主ビーム方向に対し、青森県側は一五デシベル以上減少する指向性空中線を用いること。(ロ)空中線設置場所は山頂から南に三〇〇メートル以上下がったところで(青森県側が陰となる位置)、しかも空中線の指向性は、青森県側が一五デシベル以上減少するよう考慮すること。(ハ)h√GPは七三デシベルとし、空中線は垂直偏波とすること」
この折爪の問題は、岩手県側が構想をうちだした三十五年からの懸案であり、当社としてはその年の十一月二十五日、鈴木郵政大臣宛福岡局の割当ては慎重を期すよう要望書を提出している。三月三十日に反対の理由をくわしく記載した書類を、郵政当局の関係者に提出しているばかりでなく、社長、専務、常務、技術局長が何回も郵政省に出向いて変更を迫っている。とくに五月に小沼常務と戸村技術局長が放送部の技術課長と激論をかわしたときは、あまりの白熱した見幕に執務中の多数の視線が集中し、いたたまれず別室に移る騒ぎとなった。激論は両社の見解が平行線のまま持ち越されたが、最終的には、(一)指向性の最小は野辺地方面とする、(二)割当規模は三デシベル低減する、以上のような処置によって、青森県側に電波の伝ぱんが少ないようにするという妥協案で、福岡局は誕生した。しかし実際には、青森県側にアンテナ・エレメントがついていたため、いろいろと後日まで尾を引く結果となり、騒動は本県にUの新局が誕生した四十四年まで継続したのである。
昭和三十六年三月二十七日、郵政省からテレビジョン放送用周波数の第二次割当計画表(案)が発表された。この割当案によると、当社が最も懸念した青森・岩手の県境にある標高八五二メートルの折爪岳に、八戸テレビ局とまったく同規模の福岡テレビジョン局が、岩手県側に置局されるようになっていた。無指向性でこれだけの規模の局が折爪にできるとなれば、まず第一に当社の八戸テレビ局の受信に混信して大きな妨害となる。また放送区域は、八戸テレビ局よりも広範囲となり、県南全域はもちろん、下北半島にまで及ぶことになる。これは当社が八戸テレビ局を建設するにあたって、送信地点として第一候補地とした七四〇メートルの階上岳を変更した経緯からも、とうてい認めるわけにはいかなかった。それは一企業の利害関係というよりは、民放開設以来の県域放送という、放送局免許条件の基本問題にかかわる重大な変更であった。この割当計画に対する公聴会は四月十日に利害関係者を集めて郵政省で行なわれ、当社からは小沼常務と戸村技術局長が出席して、つぎのような意見を開陳した。
「割当計画表(案)中の割当地区名福岡のh√GP(規模)は実情に添わないものであり、このため隣接する当社のサービスエリア内の視聴者に、混信障害が起こることが懸念されるので、つぎに示すような適当な値まで下げるか、影響のない技術的条件を十分加味されるようにされたい。(一)送信所設置場所は県境から少なくとも一五キロメートル以上離れ、しかも送信空中線海抜高は三〇〇メートル以下にされたい。(二)送信所設置場所が県境から一五キロメートル以内の場合で、しかも送信空中線海抜高が三〇〇メートル以上の場合は、つぎの三条件のうちのいずれかの処置をとられたい。(イ)h√GPは割当案の八三デシベルから一〇デシベル減少した七三デシベルとし、しかも主ビーム方向に対し、青森県側は一五デシベル以上減少する指向性空中線を用いること。(ロ)空中線設置場所は山頂から南に三〇〇メートル以上下がったところで(青森県側が陰となる位置)、しかも空中線の指向性は、青森県側が一五デシベル以上減少するよう考慮すること。(ハ)h√GPは七三デシベルとし、空中線は垂直偏波とすること」
この折爪の問題は、岩手県側が構想をうちだした三十五年からの懸案であり、当社としてはその年の十一月二十五日、鈴木郵政大臣宛福岡局の割当ては慎重を期すよう要望書を提出している。三月三十日に反対の理由をくわしく記載した書類を、郵政当局の関係者に提出しているばかりでなく、社長、専務、常務、技術局長が何回も郵政省に出向いて変更を迫っている。とくに五月に小沼常務と戸村技術局長が放送部の技術課長と激論をかわしたときは、あまりの白熱した見幕に執務中の多数の視線が集中し、いたたまれず別室に移る騒ぎとなった。激論は両社の見解が平行線のまま持ち越されたが、最終的には、(一)指向性の最小は野辺地方面とする、(二)割当規模は三デシベル低減する、以上のような処置によって、青森県側に電波の伝ぱんが少ないようにするという妥協案で、福岡局は誕生した。しかし実際には、青森県側にアンテナ・エレメントがついていたため、いろいろと後日まで尾を引く結果となり、騒動は本県にUの新局が誕生した四十四年まで継続したのである。
(青森放送(1980)「青森放送二十五年史」P254〜P255)
RABは相手の具体的な社名こそ記載していないが、IBCを指していることは明白だ。「民放開設以来の県域放送という、放送局免許条件の基本問題」という形の言及からNHK盛岡(JOQG)ではないし、1961(昭和36)年当時に存在した岩手の民放はIBCしかない。
一方でIBCのエリアが「県南全域はもちろん、下北半島にまで及ぶことになる」折爪岳への周波数割当は慎重を期すよう請願した相手の名前は、「鈴木郵政大臣」と出てくる。
鈴木郵政大臣とは、後の首相・鈴木善幸(岩手選出)。
郵政省東北電監免許部長が言った抑止効果もなく、公聴会での要望もほぼ通らず、やむなく妥協案を結んだが「実際には青森県側にアンテナ・エレメントがついていた」というRABにとって不本意な結末を招いたものは何だったのか。

「折爪問題」の発生から約40年の時を経て、東名阪3大都市圏で地デジが開始された2003(平成15)年にIBCが発行した社史「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」を読んでみよう。
4.釜石・福岡などエリア拡大
(前半の釜石局部分は省略)福岡テレビサテライト局の免許申請も早かった。釜石の申請からまだ2ヵ月もたっていない34年12月17日に提出した。県北世帯(九戸、二戸郡一帯)をカバーするため、福岡町折爪岳(847m)に中継局を設置しようというものだが、青森県境に近いため心配もあった。35年11月12日に西崎電波監理局長も来盛しわざわざ現地を視察している。その結果、絶好の地とされた。4月には「2次プラン」が発表され、福岡テレビ局はその具体化したものと位置づけられたが、折爪岳はこの地方で最も高い山で360度の展望がきき、エリアは青森県八戸市、さらには十和田市、三沢市まで良視地域に入る、放送区域は前年9月に開局していた青森放送八戸テレビ局よりも広範囲になると予想された。もう旧聞だから、この件に関しては「青森放送二十五年史」から一部引用させてもらおう。
この割当計画に対する公聴会は4月10日に利害関係者を集めて郵政省で行われた。青森放送側は次のような意見を開陳した。
「割当計画表中の福岡の規模は実情に添わないものであり、このため隣接する当社のサービスエリア内の視聴者に、混信障害が起こることが懸念されるので、適当な値まで下げるか、影響のない技術的条件を十分加味されるようにされたい。(1)県境から少なくとも15�船瓠璽肇覦幣緡イ譟∩�信空中線海抜高300メートル以下とする、(2)それができない場合は、規模を減少し、南斜面に移動、指向性空中線を用いること、のいずれかを処置すること」
郵政当局の関係者に何回も出向いて変更を迫ったが、両者の見解が平行線のまま持ち越され、最終的には、(1)指向性の最小は野辺地方面とする、(2)割り当て規模は3デシベル低減する、以上のような処置によって、青森県側に電波の伝播が少ないようにするという妥協案で、福岡局は誕生した。しかし実際には、いろいろと後日まで尾を引き、騒動は本県にUの新局が誕生した44年まで継続した。
(前半の釜石局部分は省略)福岡テレビサテライト局の免許申請も早かった。釜石の申請からまだ2ヵ月もたっていない34年12月17日に提出した。県北世帯(九戸、二戸郡一帯)をカバーするため、福岡町折爪岳(847m)に中継局を設置しようというものだが、青森県境に近いため心配もあった。35年11月12日に西崎電波監理局長も来盛しわざわざ現地を視察している。その結果、絶好の地とされた。4月には「2次プラン」が発表され、福岡テレビ局はその具体化したものと位置づけられたが、折爪岳はこの地方で最も高い山で360度の展望がきき、エリアは青森県八戸市、さらには十和田市、三沢市まで良視地域に入る、放送区域は前年9月に開局していた青森放送八戸テレビ局よりも広範囲になると予想された。もう旧聞だから、この件に関しては「青森放送二十五年史」から一部引用させてもらおう。
この割当計画に対する公聴会は4月10日に利害関係者を集めて郵政省で行われた。青森放送側は次のような意見を開陳した。
「割当計画表中の福岡の規模は実情に添わないものであり、このため隣接する当社のサービスエリア内の視聴者に、混信障害が起こることが懸念されるので、適当な値まで下げるか、影響のない技術的条件を十分加味されるようにされたい。(1)県境から少なくとも15�船瓠璽肇覦幣緡イ譟∩�信空中線海抜高300メートル以下とする、(2)それができない場合は、規模を減少し、南斜面に移動、指向性空中線を用いること、のいずれかを処置すること」
郵政当局の関係者に何回も出向いて変更を迫ったが、両者の見解が平行線のまま持ち越され、最終的には、(1)指向性の最小は野辺地方面とする、(2)割り当て規模は3デシベル低減する、以上のような処置によって、青森県側に電波の伝播が少ないようにするという妥協案で、福岡局は誕生した。しかし実際には、いろいろと後日まで尾を引き、騒動は本県にUの新局が誕生した44年まで継続した。
(アイビーシー岩手放送(2003)「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」P88〜P89)
IBCは「もう旧聞だから」の書き出しで「青森放送二十五年史」を引用しつつ、西崎東北電監局長が折爪岳を「絶好の地」と評価したことを明記しており、RABに対し郵政省東北電監免許部長が言った「抑止効果」とは相容れない評価である。郵政省東北電監とは免許を与える立場にありながら、まさか相手がRABかIBCかで判断基準を変えるような組織だったのだろうか。
折爪問題に触れたIBC側の資料は概ね引用した範囲で、RABの「青森放送二十五年史」を覆すような事実の提示も反論もない。「青森放送二十五年史」を引用しながら「実際には青森県側にアンテナ・エレメントがついていた」という部分を削除した理由はわからない。「もう旧聞だから」には何か含みがありそうな気もするが、こちらもわからない。

ともかく日本テレビ放送網(NTV)系列のRABとは番組編成が異なる東京放送(TBS)系列のIBCは、八戸市では非常に歓迎された。IBC福岡局が正式に開局した1961(昭和36)年10月15日といえば、宮城でもまだ仙台放送(OX)が開局しておらず、八戸は当時の東北6県では希少なNTV系列とTBS系列の両方が視聴可能な都市となったのである。青函圏もRAB青森局と北海道放送(HBC)函館局の2波を視聴できたが、海峡側を除けば「雨降りテレビ」と揶揄される画質だったのを思えば、鮮明な受像状態でRABとIBCが視聴できた当時の八戸は、函館や青森どころか仙台をも凌駕する札幌大都市圏と同等の民放チャンネル数を誇る先進地に躍り出たのである。
熱狂したのは八戸市民ばかりでなく、IBCも一戸町から県境を越えた戦勝パレードさながらの開局記念パレードを八戸まで行い、八戸と福岡の2か所で開局披露パーティーを実施した。「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」から当該部分を引用する。
一つは10月24日、八戸市市民会館で八戸市長ら多数の来客を迎え、太田社長があいさつ、会場は花巻市から招いた鹿踊りと剣舞で盛り上がった。もう一つは、翌21日、福岡町(昭和47年二戸市になる)で石切所小学校を借り前郵政大臣鈴木善幸氏、東北電監好川局長ら来賓を迎え、地元関係者の挨拶や鹿踊りなど一層華やかな披露宴となった。福岡町でははじめての洋式パーティーということであった。
(アイビーシー岩手放送(2003)「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」P89)
10月24日に八戸で開催し「翌21日」に福岡(二戸)で開催という時系列の表現は引用元の原文ママだが、それよりも来賓の郵政省関係者の対応に着目したい。
八戸のIBCのパーティーには郵政省関係者は来ておらず、福岡(二戸)には仙台の電監局長は来たが、RAB八戸局の開局記念式典に来た郵政大臣代理は来なかった。
一方で、福岡(二戸)にはすでに郵政大臣ではなくなっていた鈴木善幸が来た。

無論、郵政省の大臣はもとより事務次官以下の官僚も多忙であるから、どうしても予定が合わず八戸にも福岡(二戸)にも来れなかっただけなのかもしれないが、もしかすると郵政省本省(霞が関)は意図的にIBCの式典に人を出さなかった可能性があるのではないか。
1986(昭和61)年に塩瀬豊が著した「郵政省の逆襲」によれば、民放局に対して郵政省側が応対する役職級の慣例のようなものがあり、霞が関の場合は「地方民放局の東京支社長級ならば、課長補佐か係長が当たり、地方局の社長クラスには課長か部長、在京キー局の社長は部長か局長、大臣が会うのは、民放連会長かNHKの会長」という序列があるという。RABだろうとIBCだろうと、たとえ社長が上京しても会える郵政官僚は本省の課長級か部長級ということだが、部長級が対応してくれるのは大阪の準キー局や名古屋、福岡、札幌などの基幹地域の有力局で、RABもIBCも郵政省側のカウンターパートは課長級が関の山だったのではないか。
1986(昭和61)年と、IBC福岡局が開局した1961(昭和36)年では四半世紀の差があるため、塩瀬豊の著書の指摘を額面通り受け取ってよいとも思えないが、RAB八戸局の開局式典には仙台の東北電監局長のみならず霞が関の本省からも郵政大臣代理が来たのは若干“破格”の対応といえるかもしれず、逆にIBC福岡局の方は仙台の出先から電監局長を福岡(二戸)に出して終わり・八戸には誰も出さないという形で、郵政省本省は青森と岩手で意図的に対応に差をつけたのではないか。
これは「折爪問題」で抗議を受けたRABの顔を立てただけとも思えず、郵政省本省の官僚もIBC優位に進んだ結末が不本意だったからではないのか。それも、RABが言う「民放開設以来の県域放送という、放送局免許条件の基本問題にかかわる重大な変更」がねじ曲げられたなどという綺麗事でもない気がする。

IBCが福岡局を折爪岳へ置局する申請を通した時の郵政大臣は前述の通り鈴木善幸であるが、「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」に記載されている1953(昭和28)年7月3日開催の設立準備説明会(岩手県東京事務所で開催)の記録をみると、ラジオ開局前の時点で出席者に鈴木善幸の名前がある(余談ながら後にMITの開局に関与する小沢一郎の父・小沢佐重喜の名もある)。
何なら、既に局舎は取り壊されてしまったが、アナログ放送時代のIBC福岡局舎には鈴木善幸が揮毫した局名板も嵌っていた。テレビに限らず、電電公社のマイクロ回線局舎を含めても郵政大臣が揮毫した局名板を持つ無線局舎も珍しく、IBCと鈴木善幸の蜜月ぶりを示すものではないかと思われる。
IBCは1991(平成3)年に、元岩手日報政治部次長で富士大学教授の七宮�篁阿鯤垢�手に放送したラジオ番組「岩手の昭和史」の一部内容をまとめた書籍「元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証」を発行している。この中に、気になる一節があるので引用する。
鈴木「(略)私がですね、第一次池田内閣の閣僚、しかも郵政大臣という、マスコミにいちばんの影響力を持つポストに簡抜されたわけですから──」
七宮「今、マスコミの話が出たんで、ちょっとうかがっておきたいんですが、三十五年ですから、いまお話している場所の岩手放送がラジオで始まったのが昭和二十八年で、三十五年というとテレビが始まって間もないころだったと思うんです。テレビというのは始まると大変な影響力をもちますが、ところがテレビというのは郵政大臣が電波を与える権利を持っている。NHKはもちろんですけども、ですから民間放送も含め、従来考えられていた郵政大臣よりも、そのころは非常に力をもってきたわけですね。そのマスコミに関連して、亡くなられたんですけども岩手放送の太田さんのことにもふれて、そのころのマスコミとの関係のお話をちょっと聞かせてください。」
鈴木「いまお話しになったように、電波の割り当てを受けて民間テレビが全国的に、各県に続々と誕生をした。テレビの影響力というのはもう、日本の世論を大きくリードし、形成するという力を持つようになった。それは岸内閣でね、田中角栄君が郵政大臣になって、全国に電波の割り当てを思い切ってやった。それ以来ですよ。ですから私が郵政大臣になったときはですね、一応全国に電波の割り当てがなされた後で、むしろそれをもとに各県放送局が設立されて、体制をつくりつつある時代──」
七宮「キー局中心の系列化という──」
鈴木「ええ。そういう時代ですね。NHKに対して新しく生まれた民間放送が、ひとつの組織、民放連をつくられた。私が郵政大臣になったときには、民放連の会長も三代目ぐらいの今道潤三さん、TBS社長のね。今道さんが会長であり、IBCの太田社長も民放連の理事をしておられ、今道さんの信頼も非常に厚かったし、今道さんの相談にあずかって、事実上民放連を牛耳っておった時代ですな。ですから私は民放連の総会にもしばしば出てあいさつをしたり、いろんな、新しく生まれた民間放送の将来の発展の問題について、いろいろご相談にあずかったことがありますね。」
七宮「今、マスコミの話が出たんで、ちょっとうかがっておきたいんですが、三十五年ですから、いまお話している場所の岩手放送がラジオで始まったのが昭和二十八年で、三十五年というとテレビが始まって間もないころだったと思うんです。テレビというのは始まると大変な影響力をもちますが、ところがテレビというのは郵政大臣が電波を与える権利を持っている。NHKはもちろんですけども、ですから民間放送も含め、従来考えられていた郵政大臣よりも、そのころは非常に力をもってきたわけですね。そのマスコミに関連して、亡くなられたんですけども岩手放送の太田さんのことにもふれて、そのころのマスコミとの関係のお話をちょっと聞かせてください。」
鈴木「いまお話しになったように、電波の割り当てを受けて民間テレビが全国的に、各県に続々と誕生をした。テレビの影響力というのはもう、日本の世論を大きくリードし、形成するという力を持つようになった。それは岸内閣でね、田中角栄君が郵政大臣になって、全国に電波の割り当てを思い切ってやった。それ以来ですよ。ですから私が郵政大臣になったときはですね、一応全国に電波の割り当てがなされた後で、むしろそれをもとに各県放送局が設立されて、体制をつくりつつある時代──」
七宮「キー局中心の系列化という──」
鈴木「ええ。そういう時代ですね。NHKに対して新しく生まれた民間放送が、ひとつの組織、民放連をつくられた。私が郵政大臣になったときには、民放連の会長も三代目ぐらいの今道潤三さん、TBS社長のね。今道さんが会長であり、IBCの太田社長も民放連の理事をしておられ、今道さんの信頼も非常に厚かったし、今道さんの相談にあずかって、事実上民放連を牛耳っておった時代ですな。ですから私は民放連の総会にもしばしば出てあいさつをしたり、いろんな、新しく生まれた民間放送の将来の発展の問題について、いろいろご相談にあずかったことがありますね。」
(岩手放送(1991)「元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証」P122〜124)
鈴木善幸は具体的な事例こそ挙げていないが、郵政大臣時代に今道潤三TBS社長の相談にあずかり民放連を牛耳ったとか、民放の問題にいろいろ相談にあずかったと発言していたのだ。
郵政省の官僚が作成した周波数割当計画などにも、鈴木善幸が郵政大臣の立場で介入したこともあったのではないか。それ自体は大臣の権限で問題ないにせよ、地方局の社長だろうと課長級が応対する慣習の郵政省である。現場の郵政官僚が考えた案に、頭ごなしに否定的に介入する大臣の差配に内心不満を抱くこともあっただろうし、ましてやこれまで課長級があしらっていた太田俊穂IBC社長が民放連の理事として今道潤三の名代で乗り込んで来ようものなら部長・局長級が相手をしなければならず、郵政官僚たちも心中穏やかだったとは思えない。
そうした積み重ねが、鈴木善幸と蜜月のIBC福岡局の開局記念パーティーに郵政省本省から来賓を出さないという報復のような結果となってもおかしくないのではないか。
郵政大臣までやった鈴木善幸と郵政省の折り合いが良くないとは信じがたいかもしれないが、1994(平成6)年に「郵政省解体論」で郵政省利権を批判した小泉純一郎が「利権に与ったのが、その後の角栄人脈、つまり竹下登、金丸信であり、小沢一郎」と名指しする中で鈴木善幸の名前はない(解体を唱え実行した小泉純一郎も郵政相経験者である)。電電公社を痛烈に批判した郡司和夫(1981)「電電公社・悪の構図」でも鈴木善幸は「足場のない」状態であったとしており、鈴木善幸と郵政省との関係はそれほど深くなかったのであろう。

もう一つIBCと鈴木善幸とRABにも絡んで「折爪問題」をややこしくしそうなのは当時の民放連会長でTBS社長・今道潤三。
「青森放送二十五年史」によれば「KRT(筆者注:TBSのこと)番組のネット関係収入については足立ラジオ東京社長と当社担当幹部との会談で、概要の方向を合意していたにもかかわらず、スタート直前に示されたKRTの案が概要合意案と相違し、当社の予定より月額約一,〇〇〇万円も少なかったため」、RABは当初予定のTBS系加盟を土壇場で白紙に戻しNTV系加盟を決めた歴史があり、逆にTBSサイドも青木貞伸(1981)「日本の民放ネットワーク JNNの軌跡」によれば「ラジオ東京常務だった今道潤三氏(故人)は青森放送側の『ラジオ東京では、どの程度の営業数字を保証してくれるのか』という要請に対して、『うちでは番組面での協力はするが、売上げの保証をするようなことはしない。これ以上、あなたたちはラジオ東京に何を期待しようというのですか』という表現を使っていた──と当時の関係者は証言している。」と、RABと今道潤三TBSの関係性は非常に後ろ向きであったことがわかっている。

一方、ほぼ同じ時期にIBCが系列選択で揉めた相手は正力松太郎率いるNTV。過去記事「ABSは本当にTBS系を希望したのだろうか?」で触れたとおりだが、IBCは後楽園球場の巨人戦ナイター中継を含めたNTV系番組のネットが不可能な事態に陥り、1965(昭和40)年当時はIBCは北日本7道県の民放テレビ9社で売上高最下位という不名誉な成績に低迷していた。
「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」によれば、助け船を出したのが今道潤三。NTVを受けられずTBSをネットするにも「スポンサーが諒解しないものあって難航した。ついには手当てのつかないものもあっ」た状況だったが、「『何ぼ計算違いか数字を出せ、検討しよう』と言ってくれた」のが今道潤三だという。
同じように相談に行ったRABとIBCで、今道潤三の物の言い方がずいぶん違うようにも思うが、鈴木善幸との信頼関係が厚かった結果なのだろう。

現在では岩手県都・盛岡も中核市に指定されているが、昭和35年国勢調査(1960年)の人口10万人以上の市の人口ランキングをみると盛岡は157,441人で、174,348人を擁する八戸に負けていた。人口9万を擁した岩手第二都市の釜石も間もなく人口減少に転じる時期である。
「IBC岩手放送小史(開局五十周年記念誌)」でも、「本県は地域広大で山岳も多く、ラジオ・テレビ共に多くの分局の設置が必要であり」と、面積第2位で人口密度最下位の岩手県で民放を経営する地理的な厳しさに触れている中で、IBCが折爪岳に福岡局を置くことは、盛岡よりも大きな都市・八戸をエリアに収めるという重大な意味があった。
IBCは「臨海工業都市として躍進する八戸市に営業拠点を置」くべく、福岡局の放送開始に先だって1961(昭和36)年9月1日に八戸市馬場町に八戸支社を置いた。
そしてこのIBC八戸支社は今道潤三にとっては、RABのテレビ開局直前のネット系列転換がなければ本来持てるはずだった青森県におけるJNNの報道拠点という意味をもつ。
1969(昭和44)年の青森テレビ(ATV)の開局とともに、IBCが担当するJNNの守備範囲から青森県は外れたが、1968(昭和43)年の十勝沖地震では最大の被災地・青森県の取材拠点になったのはIBC八戸支社である。
IBC福岡局の開局記念式典に本省から来賓を出さなかった郵政省の対応、当時のIBCの苦しく厳しい経済的事情、民放連会長にしてTBSトップの今道潤三とRABの対立──
これらの利害関係をみるに、本来は放送法や民放制度に鑑みて青森に電波を出しすぎぬ位置への周波数割当を進めた霞が関なり東北電監の郵政官僚に対し、今道潤三との信頼関係が厚い鈴木善幸が郵政大臣という強大な権限でIBC優位に差配した結果が「折爪問題」の根源なのではないか、というのが当ブログの予測である。

なお、鈴木善幸という首相に上り詰める郵政大臣がいた岩手・IBCに対し、青森のRABは無策でやられっぱなしだったという訳でもなく、一矢報いる場面もあったのではないかと思われるのが、この後に行われるむつ(釜臥山)の周波数割当である。
当初郵政省はむつにUHF波を割当したが、RABは「Vの一〇チャンネルに変更の要望書を郵政省に提出」し、公聴会でも同様の趣旨を開陳した結果、RABむつ局はVHF10chでの免許を得ることに成功している。
福岡(二戸)の「折爪問題」では郵政大臣の鈴木善幸に押さえつけられて忸怩たる思いでいた郵政官僚の中には、むつでRABに借りを返せたと思う者もいたのかもしれない。
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